これから、この欄にはいろいろな人の意見、考えを掲載したいと思います。いろいろな人というのは、私の教え子を含め、私の元同僚(高校教員)、各父兄、友だち
知人などです。その人たちにいろいろ話題を取り上げて貰い、論じて貰いたいと思っています。

次回、第一回は私が書きたいと思っています。私は、体験記の方で登場していますから、あまり登場するつもりはありませんが、登場した時には、よろしくお願いします。リレーと名づけていますので、ある人の考え、意見に対しての自分の考え、意見を述べて貰ってもいいと思っています。日本人は他国の人に比べて、違う意見に対して拒絶気味になる傾向があると思います。

私は、「違う意見・考え=反対意見」という図式があまりにも成り立っているように思います。意見・考えは人の顔を同じで十人十色だと思います。違う意見を理解しながら物事がいい方向へ向かってくれればと思います。この場を意見交換の場としたいと思っています。次回の私のテーマは「教授の嘆き」です。皆さん、よろしくお願いします。さあ、これから頑張って続けていきましょう。つづく





題『教授の嘆き』
今回は、私が5年前に通っていた、上智大学大学院の教授の話です。
その教授は、「答えの分かっている問題を解答する事に関しては、うちの学生はとても優秀だと思うが、自分でテーマを決め、論じていこうという段階になると、丸っきり取り組みがない。」と嘆いていました。
確かに卒論などは数年に渡って書くものです。そうやすやす書くことはできません。ですから、文章を書くことが苦手という生徒も多いはずです。しかし、論文が書けないという大きな理由は、おそらく、小・中・高までの答えを丸暗記すればよい点数が取れる、少なくても良い点数が取れれば偏差値の高い大学へ行ける、というところにあると思います。違う言い方をすれば、試験においては、考え、試行錯誤などいらない。そういう試験が日本型なのです。また今までの日本というのは、すべてにおいてマニュアル化してきたように思います。例えば、教科書には「トラの巻」があります。アメリカの小・中・高にはそんなものはありません。一人一人の人生に「トラの巻」などないのです。
ですから、一人一人が自分で物事を考え、自分や他人の考えを知るべきだと思います。そういう努力を生徒一人一人がするようになる事を私は期待します。この欄がその役割を少しでも担ってくれれば、私の喜びです。つづく





題『国語の試験問題』
今回も引き続き私が担当します。
国語の試験問題には、日本では作家や批評家の文章がかなり使われていると思います。以前、こういう事がありました。大学入試で出題された文章を書いた作家が自分自身で解いていたら、10問中3問、間違えてしまったというのです。まさに設問が不明瞭であったり、書いた本人と設問者「大学の入試作成者)とのあいだには、あまりにも物の考え方のギャップがあったようです。
私は日本の国語試験や国語授業というのは、あまりにも国語的価値観の枠にはめ込もうとしているように思えてなりません。違う言い方をすれば、生徒を同じ典型的人間にしとようとしているように思えるのです。文学の名の下にある価値観を強制しているようにも思えるのです。これはある意味、学問上のイジメだと思います。恐らく子供たちには、作品の国語的価値観の枠にはめられようとしている事を少し感じながらも、点数のために無理してその価値観を受け入れざるを得ない。私は、今年度より総合教育の中で各生徒の意見、感情が認められるようにと願っています。つづく





題『経済と教育』
引き続き私が担当します。
21世紀に入り、経済と教育の関係がもっと論じられても良いのではと私は思います。戦後57年間の日本の教育というのは、戦前の価値観の崩壊から出発しました。一元的価値からアメリカ的な多元価値へと移行しました。取って代わったアメリカ的価値(アメリカ的教育)というのは、実利的個人主義で、価値観に関しては社会的価値観を中心にするのではなく、個人の価値観を中心に構成したものだと思います。アメリカは多民族国家であり、地域や家庭では日本では考えられないほどの異なる事情が多くあります。
日本といえば、少数民族であり、価値観は一元的であり、各家庭もあまり大差はなく、国全体は戦後、経済成長を目標とし、その目標は多くの人の目標でもありました。そのために、個人に何が出来、自分自身の存在理由、家族との関係のあり方などを考える事を忘れてしまったように思えます。しかし、経済が成長し、成熟し、バブル崩壊後の傷跡も未だに癒されていない状況で、日本の人間形成の場である教育はどこへ行くのだろう…。つづく

『経済と教育 2 』
多様化の結果、選択幅が広がり、それが原因で選択の自由がエゴイズム(自己中心)へと傾き、自立できない若者が増えた。それが社会の歪みとなり、売春をしている高校生が、他人に迷惑を掛けてないからと問題ないと平気で言ってしまう社会が生まれてしまった。インターネットの普及で、今までの知識や情報を蓄えているだけでは意味がなく、その膨大な知識や情報を、「どう生かし」「どう選択し」「何のために」「誰のために」使うのかという力が要求されてくる。日本経済の不況の中、効率や、競争に勝つ力、情報に振り回されるだけでなく、人や自然を親しむ心、親和力、自立心などがもっと養われる必要がある。自分が自分たるゆえ、自分を自分自身で耕す時代が今だと思う。
経済と教育の関係を逆転させるくらいの発想がなければ、今後の情報化社会というのは、我々が生きていくうえで、新たに出来る不幸な火種になりかねない。住基ネットのミスは始まったばかりです。私は総合教育の中で、こういう問題に対応できる教育を強く期待してます。つづく





今回の話は、日本舞踊を習っている高校3年生のものです。私の感想を一言で言うと、『夢を語れる数少ない高校生』だと思います。私はこの生徒(舞ちゃん)が踊るのを2度見ましたが、とても心が和むものでした。(*^_^*)

私は高校3年生です。しかし私はもうひとつの顔をもっています。それは、日本舞踊を習っているもう一人の私です。母が日本舞踊を習っていたため、幼いころからお稽古に連れて行かされていました。母の後ろで音にあわせてでたらめに踊るのが好きで、私にとってのお稽古場は、遊び場でした。その内、3歳から本格的に習い始めました。初舞台は4歳で、それから数々の舞台に出てきました。舞台は主に東京の国立劇場という有名なところです。私はその場所で、小学校3年生の時に師匠である泉奈々と「連獅子」を踊りました。この踊りは、親獅子が自分の息子を強くてたくましい獅子にするために、谷に落とし、子獅子が必死に這い上がってくるという厳しさの中に親子の愛情がある物語です。まるで、私と師匠の関係を演目で踊ったようなものです。多くの人が感動してくれました。それ以来自分を表現出来るのはこれだと感じました。これをきっかけに、日本舞踊家になる夢を追い続けてきました。つづく

中二の夏に泉舞奈という名前を頂き、今年の1月に名目披露をしました。この舞台は好評で、雑誌・新聞にも載り、それは私の自信にもつながりました。今は、日本舞踊協会神奈川県支部40周年公演に向けて、練習に励んでいます。年配の人との練習はとても良い経験になります。
皆さんは何か一生懸命続けている事や、夢はありますか。それを絶対に失わないで欲しいと思います。それが自分の誇りになり、自信になるからです。わたしのこれからの目標は、常に向上心を持ち、何事にもチャレンジする事です。踊りだけでなく、英語の勉強もしたいと思っています。英語で、外国に日本の伝統芸能を伝えたいというのが私の1つの大きな夢です。夢に向かって頑張ります。

(私から一言)
具体的な目標を持つのは素晴らしい事だと思います。いくら自分で選んだ道とはいえ、辛い出来事のほうが多いかと思いますが、頑張って欲しいと思っています。これを読んだ生徒には、具体的に自分のこれからを考えて欲しいと思います。人は具体的な目標が持てると強くなれると思います。10年後の自分を想定して、その理想を手に入れるために、今から頑張っていこう.\(◎o◎)/!つづく





今回は去年一年間、塾で理科と数学を担当していただいた非常勤の女性の話です。内容が、中学・高校生向きだと思います。
題『きみにはオーラがあるか?!』
「あの人にはオーラがある」と言ったりします。「オーラ」を辞書で引いてみると、1.生物体から放散されるといわれる透明な物質。2.独特なおもむき。 と表現されています。まず、生物体から放散されるということは、私たち人間は誰でも「オーラ」を持っている可能性があります。そして、透明な物質なので、目には見えません。独特なおもむきということで、人はそれぞれユニーク(唯一無二)な味わい、とでも解釈できるでしょうか。まとめると、「オーラ」とは、何も選ばれた人だけが持っている魔法のような不思議なものではないようです。でも、わが身を振り返って「自分からオーラは出ているのか」と考えると、なかなか「自分にはオーラがある」と断言できる人はあまりいないでしょう。やはり、特別な人だけが持っているスペシャルなものに見えてしまいます。
人によって捉える「オーラ」の感覚は異なるかもしれませんが、「居るだけで生き生きとした輝きを放つ人」です。では、どうしたら、そのような魅力的な人になれるのでしょうか。つづく

恐らく、そういう人は自分の中に「誇れるモノ」を持っています。これだけは人に負けない、譲らないというモノを持っています。すれが自分を支える大きな柱になるのです。けれど、辛い事や苦しい事があっても、常に凛とし続ける事は、どんな人でも容易な事ではありません。ふとした事で自分に自信がなくなって、弱い気持ちになる事だってあるでしょう。大切なのはその繰り返しなのです。下を向く日があっていい、無理に上を向かなくたっていい。乗れる風を感じたときに自分を奮い立たせる事ができれば、支柱はそれまでよりさらに大きくなっているはずです。それを何度も繰り返した人ほど、立派な支柱を持っていて、存在感を持って輝いていると、私は思います。
「誇れるモノ」は、人それぞれ独特なもので、小さなことでもいいと思います。誰でもひとつは「これだ」というものがあるはずです。それを自分で見つける事も、オーラに繋がるプロセスです。あなたの「誇れるモノ」は何ですか?
偉そうな事を書いてきましたが、実は私自身、弱い気持ちになっている最中なのです。こう書きながら、いまは自分が成長するためのステップなのだと、自分自身を励ましているのかもしれません。オーラのある魅力的な人になりたい人もそうでない人も、自分探しをしている人もこれからする人も、最後まで自分を信じてあげてください。そして、約束できることは、「なりたい自分にぜったいなれる!」ということです。あなたの後ろにオーラが見える日も、そう遠くはありませんね。

(遠近意見)
恐らくこれを読んでる人は、「いま自分にはどんな能力があって、社会に出てから何ができるのか」ということを考えた事がない人が、大部分だと思います。
私はアメリカ留学で、色々、自分自身を発見しました。自分自身を発見する一番の方法は、「何でもベストを尽くすこと」です。そうしないと、自分自身を見失い、社会の状況に流されやすい人になってしまいます。この女性の話を機に自分探しをしてみてはいかがですか。つづく





題『生命力はいまだ健在』
今回は、去年非常勤講師としてきていただいた、東京大学大学院生の男性の話です。

 先日、新聞を読んでいて、「ウィルスを人工的に創ることに成功した」という記事が目にとまった。人工ウィルスの作製に成功、と聞くと、人々はどのような反応を示すだろうか?色々な意見がありそうである。「びっくりした」「人類はついに生命までをも創り出した!」「工業的に応用できるかもしれない」「テロリストが新たな生物兵器を作り出すんじゃないかと心配だ」等々。生物学を少しかじってみると、これは、生命科学の進歩により可能になったのだと分かるだろう。昨今の生命科学の進歩はすさまじく、遺伝子組み換え動物および植物、生殖医療、再生医学、クローン動物等、かつては夢であった技術が次々と可能になってきている。
 生命学に限らず、科学は着実に進歩を重ねてきている。例えば、有機化合物という言葉がある。一昔前までは、「生物を構成する物質、生物が排出する物質は生命力によってしかつくれないもの」(※1)であると考えられていたため、これらの物質をまとめて有機化合物と命名したのである。言い換えれば、有機化合物とは命の持つ神秘的な力=「生命力」によってのみ作られる物質ということである。有機化合物以外の物質は無機化合物と呼ばれる。ところが後に、有機化合物であるはずの尿素が、無機化合物から人工的に合成された。化学合成の進歩が「性目力」の神話を崩したのである。現在では、有機化合物という言葉は、「炭素を含む化合物の総称」(※2)という意味に変わっている。  (※1)(※2)新世紀ビジュアル大辞典(学研) より引用
 だがしかし、である。生物系の人が聞いたら、「ちょっと待った!生物をなめてはいけない」と言うだろう。生物が作る物質の中には、現在でも人工的に合成するのが非常に難しいものがたくさんあるのである。例えば、植物ホルモンの一種にジベレリン(図1)という物質がある。この物質は種無しブドウを作るのに利用されるが、その際には、人工的に合成するのは難しいので、植物体から抽出して集めなければならない。(図2)さらには、植物組織の強度を強め、き「木」にするリグニンという物質があるが、これなどは、人工的に合成するのはお手上げだろう。さらに、先ほど述べた遺伝子組み換え動物および植物についても、生命の設計図であるDNAをほんの少し、いじくるだけであり、再生医学、クローン動物も、生命が持つ偉大で複雑なシステムを人間が借りて上手く利用しているに過ぎない。
 こうした生物学の視点で最初の人工ウィルスを振り返ってみる。ウィルスというのは遺伝子入りのカプセルとでも言うべきものであり、細菌等の生物に寄生しない限り増殖する事すらできないものである。ウィルスは生命ではないという意見が一般的であろう。ここでインフルエンザウィルスのような「ウィルス」と大腸菌のような「細菌」はまったく別物であることに注意しよう。ウィルスが生命とは言えない以上、冒頭の「人類が生命を作り出した」という意見は妥当ではない。これだけ生命科学が進歩しても、ようやくやっと、ウィルスが作れるようになったに過ぎないのである。
生命の偉大にした複雑なシステムは、まだまだ未知のことで溢れているし、様々な可能性が秘められている。「生命力」はいまだ健在である!
  (遠近意見) 内容は簡単なものではありませんでしたが、印象に残った事で、「これだけ、生命科学が発達しても、ようやくウィルスを作れるようになったに過ぎない」という文面には驚かされました。クローン動物などかなり生命科学分野は進んでいる印象を持っていた私にとっては、びっくりする内容でした。  つづく





  題『私の大学生活〜東京学芸大学〜』
 今回は塾卒業生であり、現在中1、中2の理科・数学を担当してもらっている大学一年生の話です。
彼女の印象は文武両道で中学、高校渡り、勉強・部活と頑張ってきた頑張り屋ということです。 

 私がこの大学に入学できたのは、30%の努力と70%の運のお陰でした。というのも、自分の学力では、実力、つまり一般入試ではまず受からないレベルの学校ったからです。今、私の学力を知っていながら、一生懸命に小論文を添削したり、面接の練習に付き合ってくれたり、すごく感謝しています。学芸で過ごす毎日がとても楽しいからです。教員養成の大学なのですが、実態は体育の教員、美術の教員など、様々な分野の過程があるので、内部は色々な専門学生が、一同に介したような雰囲気です。みんなが皆、それぞれ好きなことをして過ごしているし、そうできる環境のある大学です。とくに私の過程は、広く過程の多い学芸では、知る人ぞ知る、「国際理解教育」過程なので、特殊な授業も多く存在します。この過程の中で、一番有名な「アジア研究専攻」略して「アジ研」筆頭に、世界各地の地理や歴史、人々の暮らしなどを勉強したり、「国際教育専攻」の私は、帰国子女のための教育や、紛争地域が多い発展途上国の識字率を上げるためには、どうしたらいいのか等を、少ない知識をフル回転させて、みんなで話し合ったりしています。

 今まで書いただけでは、まだまだ足りないくらい、私の毎日は充実していますが、高校の友達は口をそろえて、「学校楽しくない」言います。受験期には、私以上に一生懸命勉強していた子も、「絶対この大学に行きたい。」と言っていた子も・・・。何故なのか理由は分かりません。私の特技、たった一つ自慢出来る事に、「どんな環境でも楽しめる」というのがあるのですが、そのせいだけではないと思います。確かに入学する前に抱いていたイメージとは、違う部分も多々あるし、一年生のうちには、こういう勉強がしたいとか、こんな話が聞きたいとか言う希望は、叶いにくいです。でも、自分には何が出来るのか、という事がまだ私には見えてこないし、限定もしたくはないのです。

 好きな事を仕事に出来る人っていうのは、本当に少数だし、どんなことでも仕事になると辛いことも出来るでしょう。だから、私は大学にいる間に、出来るだけ多くの事を、様々な分野において学び、雑学でもいいから「物知り」になろうと思っています。そして、自分に何が出来るのかを、何がしたいのかをマイノリティー研究会並みに突き詰めてみたいのです。私はまだ若いから、可能性だけは豊富に持っていたいのです。そして、私には大学に入学して、また「友達」という宝が増えました。今の大学の友達には、22歳の人や、二浪して入ってきた人とか、いろいろな人がいます。私の興味のあること、ないこと、知っている事、知らない事を話し合う友達がいると言うことが凄く幸せだと思います。特に私の専攻の場合、18人しかいないこともあって、みんながすごく仲良しです。大学生にまでなって、全員で学食にお昼を食べに行く姿は、ある意味圧巻でしょう。

 最後に、大学に入って感じた語学勉強について、少し書きたいと思います。私は大学で中国語を学んでいます。大学に入って半年なので、簡単な会話しか出来ませんが、ここでは勉強する際の姿勢について、述べてみたいと思います。まず、英語を中学で学んだ時と全く順序が逆でした。会話から勉強しているのです。自然と文の仕組みも分かり、文法も苦になりません。中国語と英語の仕組みは似ているからとも思いましたが、それだけではないようです。私は6年以上勉強している英語があまり得意ではなく、特にネイティブと話してみたいとはおもいませんが、中国語に関しては、それこそ中華街に行ったら、意味もないのに中国人に「ニイハオ」と挨拶してみたりするものです。難しい事はあまり分からないのですが、中学の時、こういう勉強方法だったら、もうちょっと英語に熱が入ったように思います。

 高校までは、どんなに受験期真っ只中でも、7時間は寝ていた私が、大学に入って初めて完徹をしました。確か、国連憲章の原文を翻訳するレポートだったと思います。自分でもびっくりしていて、大変だけど、興味あることには頑張れるんだという自信が今になって出来ました。しっかり意思を持って生活しないと、すぐ終ってしまうであろう大学生活を十分満喫するために、毎日励もうと思います。

(遠近意見)
恐らく、このような気持ちで大学生活を送っている人は多くはないと思います。前半の方に言及されていましたが、大学生活が面白くなかった学生の1人が私でもあります。(体験記で触れています。)面白くないからと言って、そこで腐ってしまったらおしまいです。とにかく、もがきながら、試行錯誤しながらでも、自分のためになるように努力が必要だと思います。いろいろな生徒を見ていますが、勉強が分からないからといって諦めてしまう生徒が多すぎます。もっともっと自分に鞭打って努力し、自分自身に挑戦して欲しいと思います。よくスポーツ選手がライバルは自分だというのは「自分には負けない」という意味です。人と比べて競争をするのではなく、常に自分という者を意識しながら、自分に負けないように頑張れれば、素晴らしく成長できると思います。みんなの自分自身への挑戦に大いに期待しています。






 今回は去年、非常勤で来て貰っていた、現在東大大学院に在席の人です。彼はとても生徒に慕われていた先生です。今回の話はみんなに何かを語りかけていると思います。楽しんで読んでください。

 今回、私の大学での研究ついて書こうと思います。とは言っても細かい話は抜きで、私が何に興味を持っていて、なぜ研究をしているのか、と言うことについて話してみようと思います。

 私は去年、油壺の臨界実験所にいた時、そして、現在も大学院で脳の研究をしています。なぜ、研究を、それもなぜ脳の研究をしているのかというと、それは脳が一番不思議なもので、一番面白いものだと思うからです。急にこのような話をいうと、?と感じる人もいるかもしれません。けれども、少し考えて貰えれば納得して貰えると思います。まず、不思議なのは私たちが見聞きして感じること、そして何かを考える事、こういった事すべてが脳で行われているという事です。それ以上に不思議な事は鳥や魚、虫に至るまで、ほとんどの動物たちは脳を持っていて、ものを考えて行動をしている事です。

 たとえば、ミツバチはみんなで協力して花の蜜を集めてハチミツを作りますよね。その時、蜜のある花を見つけたハチは巣に帰って、巣の仲間にどこに蜜がある花があるかを8の字ダンスというダンス言語を使って教える事が出来るのです。(これはカール・ファン・フリッシュという人が発見して、ノーベル賞を貰いました。)あんな小さなハチが言語を使って仲間と交流できるのも、その発達した脳のおかげなのです。このように考えると、生き物たちのどんな行動にも脳が重要な役割を持っている事が分かるかと思います。

 不思議ではないですか?けれども、ここでフーン、不思議だなぁーで終ったら、この話は終ってしまいますが、どうではありません。では、何故だろう? どんな仕組みで脳は働いているのだろう、この不思議の理由について知りたいなぁー、という風に思いませんか?ここが原点なのです。何かものを知っているか、成績が良いかではなく、「不思議だなぁ=なぜだろう。理由を知りたいなあ。」という素直疑問が研究の原点なのです。なぜだろう、理由を知りたいなあ、どうすればいいのだろう、→では少しこの事について調べて見よう→研究者になりたい→勉強しよう、というように私は研究への道を歩んできました。勿論、この過程で苦労・努力は必要でしたし、実際に研究をやっている今でも苦労することはしょっちゅうです。けれども、そのどれもがとても楽しいのです。

 実際に研究をしていると、ある仮説を立てて、実際の計画をし、実験をするのですが、ほとんどの場合はうまくいかない事が多いです。けれども、いろいろな工夫をしているうちに、思わぬところから、新しい事が見つかり、そのことについて調べたりする。そして、自分が新しいことを証明する。こういった過程が非常にスリリングであり、完成した時の喜びは何にも変えがたいものです。私が研究をしている理由の一部は、この試行錯誤の末に何かがうまくいった時のなんとも言い難い達成感にあるのではないかと思います。少し、話がとりとめなくなってしまいましたが、私が伝えたいのは、何かに目標をもち(漠然とした夢ではなく、現実的な目標)、そのために一所懸命になるという事は、どんなに苦労・努力が必要だとしても、非常に楽しく、達成感のあることだという事です。少し説教くさくなってしまいましたが、中学生の君達には食わず嫌いはせず、いろいろな事に積極的に興味を持ち、大きくなくてもいいから心からこれだと思えるような目標を探して欲しいと思います。

(遠近意見)
みんなはどう思いましたか?確かに現実的目標を学生の時に持てた人はとても幸せだと思います。留学時代、私は旧約聖書の「伝道の書」を読んだ時に心が震えたのをいまでも覚えています。これが私にとっての文学への一歩でした。それから聖書をむさぼるように読み、いろいろな事を知りたくなり、歴史・哲学・論理学など勉強をするようになりアメリカ5年半の滞在になってしまいました。私や木矢君のようなケースは多くはないと思います。しかし、私が一つ言いたい事は、それを探しているのか、いないのかの事です。これは大きな事で、面白い事などが向こうからやって来る訳がないのです。自分で見つけなければいけないのです。その努力・苦労をしなければいけないのです。我々の人生は一回だけです。もし同じ意思で何回も生き返る事が出来るのなら、この時代(今21世紀)には良い事がなかったから、次に生まれる予定の二百年後に自分のやりたい事を見つければいいなどとのん気な事が言えますが、残念ながらそういう訳にはいかないのです。人生は1度です。やはり我々は少しでも悔いを残さないように生きる事はある意味、義務感のようにも最近思えます。と言うのは理不尽な理由で生命を絶たれた人があまりにも多いからです。これを読んでいる人は少なくても今は元気なはずですから、すこしでも積極的に、受けた性の恥じないような行動で、これから頑張って欲しいと思います。





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