また、空港から乗ったタクシーの運転手が中学生ぐらいの年齢の娘が売春している、と言っていたことを思い出し、きっぱり断った。戦前・戦中、日本はアジアの国々に酷い仕打ちをし、今また、お金の強さにものを言わせ、悪いことをしている。そう考えると、百年後のアジアの国々の教科書に一九八○、九○年代の日本がどのように紹介されているか見ものである。このままいけば日本は、恥ずかしい、下級の国ということになってしまう、とつくづく思った。そう思われたくない、と願うのは私だけなのだろうか。

農協の人達
朝七時に目覚めた。十一時発なので、ホテルを九時三十分に出ればいいと思っていた。近所を一時間ほど散歩をしていると、八時だというのに食堂が営業していたので、そこで朝食を済ませた。市内はとても感じがよく、調和のとれた町並みだった。小さな公園でうがいをして、口の中の水を地面に吐いたら、子供に何か言われた。その時は気にもとめなかったが、後で、シンガポールでは唾をは吐いたりゴミを捨てると罰金だった。日本のように道路に捨てられた空き缶や煙草の吸い殻などは、シンガポールでは落ちていなかった。

九時前にホテルに戻り、シャワーを浴び、忘れ物はないか確認してからフロントでタクシーを呼んで貰い、十時前にホテルを出て空港に向かった。前にも書いたが空港はとてもきれいで、ゆうが優雅であった。自分が乗る飛行機会社のカウンターに行くと、周りは日本人ばかりなのに驚いた。床に風呂敷を敷いて座っている年輩の人が多かった。「赤信号、みんなで渡れば怖くない」という精神だろうか。周りの外国人達は異様な目で彼らを見ていた。私は同じ日本人として恥ずかしい思いをした。

搭乗手続きを済ませ、時間ぎりぎりに飛行機に乗り込んだ。すると、農協のグループだという男達は、飛行機が離陸する前から床に座り込んで、スチュワーデスに迷惑をかけていた。ツアーコンダクターの若い男が汗をかきながら説得し、一度、席に着いたが、離陸して落ち着くと、床に風呂敷を敷き、六人の男達が座り込んだ。酒やウイスキーを出して飲み始めた。スチュワーデスが一度注意したが、無視した。トイレの前に陣取っているので、トイレを使う人のじゃまになる。ツアーコンダクターは頭を下げっぱなしだった。機内ではずうっとその調子で、花札などで騒いでいた。

もうじき日本、というアナウンスがあり、自動操縦から手動に替わったのだろう、機体が揺れ出し、彼らのお酒やウイスキーがこぼれ、私の方にも流れてきた。本当にトラブルメーカーである。スチュワーデスがツアーコンダクターに彼らを席に着かせ、シートベルトをするように頼み、彼は一人一人持ち上げ、座席に着かせ、シートベルトを締めていた。まるで赤ちゃん、いや赤ちゃんという言葉を使うのは赤ちゃんに申しわけない、と思った。

くつろげなかった機内だったが、日本に到着。久しぶりの日本に感無量であった。
一九八九年二月のことである。

私はその年の九月にアメリカの大学院に復学するつもりでいたが、自分の計画通りにいかず、今だに苦しんでいる。(おわり・感想文をお寄せ下さい)