私は「旅行をしてから日本へ帰る」と答えると、彼は私のパスポートをじっと見た。一瞬沈黙があった。私は「日本に帰るのなら日本までの航空券を見せろ」と言われたらどうしようか、その問いに答えが用意できていなかった。十秒ほどの沈黙があり、彼はつっけんどんに私にパスポートを返し、行けという合図を首で無愛想にした。

いつもなら、何だこの態度はと思っただろうが、何せ私の方に負い目があったから、何も言えない。とにかく無事、税関がパス出来た。ホッとした気分でいるのもつかの間、右左を見ても何も分からず、バッグの底から「地球の歩き方」を取り出し、空港内を歩き回った。市内に出る地下鉄の場所をどうにか見つけ、電車に乗り込もうとしたが、どの方面行きか確認できず、乗り込めずに二本ほど発車を見送った。

日本の大学時代第二外国語として、また、アメリカ滞在中は夜学でドイツ語を学んでいたことがここで大きく役立った。片言のドイツ語で「ここで待っているとケルン行きが来ますか」と、横にいたおばあちゃんに尋ねた。「ヤー」(英語のイエス)と言われ、初めてアメリカで英語を話し、通じた時の気持ちと同じぐらい嬉しかった。

ケルンの大聖堂に感動
ドイツの列車は日本やイギリスと大きく違い、六人から八人の客室(コンパートメント)になっており、三人と三人または四人と四人が向き合って座る。列車に乗りながら「地球の歩き方」で宿を探した。ドイツの宿はユースホステルに限るとあったので、そこに決めた。場所はケルンの終着駅より一つ手前で下車し、歩いて数分とあった。一時間ほど乗り終着駅の一つ手前の駅で降りた。宿はすぐに分かるかのように書いてあったので、安心していたが、そこは知らぬ土地、右も左も分からず、夜のせいで人通りも少なかったので、場所を尋ねることも出来なかった。

仕方なく駅の周りを歩いていると、橋(ホーエンツォレルン橋)越しに、光に照らされているとてつもなく大きい建物が目に入った。磁石に吸いつけられるように、川岸(ライン川)まで行って見ると、ケルンの大聖堂(Dom)であった。周りは暗く、光りに照らされている大聖堂を見ると、心が震え、何とも言えない感動を覚えたものである。私は、ホーエンツォレルン橋を渡り、大聖堂の真下にたどり着いた。

一二四八年着工、一八八○年に完成したカトリック寺院。高さ百五十七メートル、奥行き百四十四メートル、幅八十六メートルというゴシック建築。(「地球の歩き方」参考)。イギリスでもそうだが、宗教心というのは人間をここまでがんばらせるというか、おそらく奴隷のように無理に働かされた人々が造ったのであろうが、改めて人間の宗教心のなせる技を見せつけられた思いがした。

もう一度降りた駅に戻り、ユースホステルの場所を尋ねた。すると歩いた方向が逆で、駅から三分ほどの距離だった。ユースホステルに着いたのは午後十一時を回っていたと思う。手続きが済み、四人部屋に入れられた。ユースホステルといっても設備がしっかり整っており、一人旅にはもってこいである。ちなみにギリシア、イタリア、スペインのユースホステルはひどいものであった。

寝床に入ったのは十二時を回っていた。数分もせずに眠り、あっという間に朝がやって来て、いつものように二十分ほど散歩した。改めて大聖堂を見ると、前夜見た感じとは全く違っていた。前夜は夜中ということもあり、ライトアップされ、美しさが強調されていたせいであろうか。

オーデコロンの発祥地
一つためになる話。「地球の歩き方」(ケルン編より)。ケルンがオーデコロンの発祥地だって知ってたかね。オーデコロンとは、フランス語でケルンの水という意味。ナポレオンの時代にケルンにいたフランス兵が里帰りをする時、妻や恋人にこのケルンの水を持って帰ったのだそうだ。日本語ではケルンというが、ドイツ語発音だとコーロンになる。この発音から日本語でコロンになったのだろう。一つ賢くなったでしょう。

二日目
朝早く起きて、ユースホステルの周りを二十分ほど散歩した。七時に朝食を摂った。ヨーロッパにはいろいろな国の若者達が旅行をしており、五十人収容のテーブルは、そんな若者でいっぱいであった。空いているテーブルがなかったので、相席でお願いした。彼はアメリカ人でカリフォルニア出身ということで話が弾んだ。彼は大学を休学し、一年かけてヨーロッパを回っているという。勿論一人旅であった。旅行をし始めて四ヵ月が過ぎたと言っていた。 (つづく・感想文をお寄せ下さい)