いつかは日本へも、と言っていたが、日本への旅行は費用がかかり過ぎると考えているらしく、まだ先の話だと言っていた。一時間ほど話をして、いろいろ情報を貰った。これから旅を続ければ、こういう場面に出くわし、いろいろな人に会えるんだなあ、と期待したものだ。日本人も含め、いろいろな国の人に出会えたことは、今の私に取ってプラスになっている。そのプラスの部分をこれからゆっくり話していきたい。

とにかくアメリカの彼と仲良くなり、私の日本の住所とアメリカの彼の住所を教え合った。こういうのが文化交流の始まりで、一人一人がこういう形で交流を持つことが、国と国との摩擦緩和に役立つのではないかと思った。それ以来、私は出会った人全てと住所を教え合った。(例外あり。後で書くがスペインで知り合った日本人女子大生二人には私の住所は教えなかった)。日本に帰国してから、住所を教え合った人達に一度だけだが手紙を書いた。返事はみんなからきた。

ドイツの親友の家へ
大学時代の親友に電話を入れ、会うことになった。ケルンから列車で四十分ほどのところにエッセンという町があり、そこからバスで三十分行くと、親友のアンドレアスの家であった。エッセンの駅まで迎えに行きたいが、仕事で抜けられないということだった。私はバスに乗り、彼の家まで行くことにした。エッセンの駅はあまり大きくなく、久里浜駅のようで、周りも似ていた。バス停を探し、時間を確認。三十分に一本の割合で発車しており、ちょうど出たばかりだったので、近くの店で一息つくことにした。

時間になり、バスがやって来た。運転手に、親友の住所が書いているメモを見せながら、片言のドイツ語で、このバスはこの住所のところに行くか、と尋ねると、「ヤー」という返事だった。よかったと思ったが、さらに何やら言っている。結局後で分かったことだか、その住所の近くまで行くが、彼の家に一番近いバス停までは行かないということだった。そんなことは知らなかった私は、バス停がないところで降ろされ、運転手に「この道を五百メートルほど行けば、その住所のところに行ける」と教えられ、親友の家の近くまで行った。番地が五桁あり、一軒一軒調べ、このまま進めば彼の家に行き着けると思った。すると後十五軒目で彼の家の番号に到達するはずだったのに、番号が切れてしまい困っていると、近くにいたおばさんが話かけてくれ、私が「この番号の家に行きたいのですが」と聞くと、「これは反対側のブロックだ」と教えられた。

礼を言って道を渡り、また家の番号を追いかけて行った。するとすぐに彼の家が見つかった。ところがベルを鳴らしても、ノックをしても誰も出て来ない。表札の名前を確認したが間違いない。一時間ほど家の前で待っていた。すると一人の女性が車で帰って来て、私を見るなり「ヨシか」と聞いた。「そうです」と返事をすると、「息子から聞いている」と言われホッとした。「さっきまで待っていたが、貴方が来ないので買い物に行ってきた」と言うのだ。そして、どのぐらい待ったか聞かれ、「一時間ほどです」と答えると、「ちょうど外出したばかりの時ね」と、私に申し訳けなさそうに話し、家の中に招き入れた。ジュースとお菓子を出してくれた。とても感じのいい人であった。

私のことは卒業アルバムを見て、知っていたらしい。
彼女はアンドレアスに電話を入れ、私が到着したことを伝えた。「彼は、後二時間ほどで仕事が片づく。家に戻れるのは三時前後になる。私の部屋で休んでいてくれ、と言っている」と、お母さんが彼の言葉を伝え、すぐにベッドを用意をしてくれた。疲れてはいたが、ベッドに入っても寝る気分ではなく、彼の部屋のテレビをつけた。チャンネルを回すとちょうどサッカーをやっており、それに見入ってしまった。後半のラスト二十分ほどしか見られなかった。

見終わった後、一時間ほど眠った。目覚めた時、彼が帰って来るまで後一時間はあったので、周りを散歩してくると言って家を出て、風景を楽しんだ。外国にいることを実感した。散歩に疲れ、彼の家に戻ると、お母さんの車とは違う車が止まっていた。玄関のドアを開けると、彼がそこに立っていて、久しぶりの再会を抱き合って喜んだ。彼の家には三日間滞在した。その間にデュッセルドルフの博物館を見物したり市内を観光した。

英語学校時代の友

この後、アメリカの英語学校時代の友達を訪ねた。彼はキール大学の教授だったが、そこを退職し、奥さんと二人だけでコンピューター会社を設立した、と聞いていた。 (つづく・感想文をお寄せ下さい)