別れ際、百ポンド紙幣をベルトの中から取り出し、彼女らにあげた。私のまさかの時のお金だったが、今日と明日の食事代と言って渡した。
マドリッド行きの列車の中で、神様は酷なことをするなあ、と恨みつつ、外を眺めていた。もし、あの二人がとてもかわいかったらと考えていた。運命の出会いとなり、今ごろ、どちらかと夫婦になっていたかも知れない。多分私のことだから、パスポート発行日までいたかも知れない。限りなく仮定の話を膨らませていると、自分が哀れというか、惨めというか、何とも言えない悲しい気持ちになってきたものだ。

今でも、もしあの二人が美人でかわいかったならば、と考える日がある。空しいことである。あの日のことはあの日で断ち切ったはすなのに、今でも引きずっている。 

マドリッド
バルセロナから列車で約三時間。マドリッド市内の北にあるチャマルティン駅に到着。印象はバルセロナよりスペインを感じさせる町であった。到着は二時ごろだったと思う。早速、地図を見ながら、市内を回った。スペイン広場にあるドンキホーテとサンチョパンサの像を見ながら、一時間ほど列車の旅の疲れを癒し、近くにある王宮に向かった。そこのていえん庭園が素晴らしかったと記憶している。その庭園を見終わったころは、すでに六時を回っていので、ホテルを探し、チェックインをして、シャワーを浴び、八時にはベッドに入った。横になりながら、バルセロナのことを思い出していたが、いつの間にか眠りに落ちていた。翌朝、起きたのは九時。十二時間近く寝たことになる。旅行中こんなに熟睡できたのは初めてであった。十時にホテルを出た。そこにはもう一泊するつもでいた。

朝食を摂り、また前日と同じコースで、マヨール広場、名前も知らない数々の教会、国会議事堂、シベーレス広場、独立ひろば広場、そしてレディーロ公園を横目に、プラド美術館に二時に到着。閉館の七時まで、そこにいた。中世の宗教絵画が多く、改めてヨーロッパでのキリスト教の影響の強さを知った。またスペインの巨匠、ゴヤ、グレコなど、それまで名前しか知らなかった人の作品に触れ、改めて感動した。近くの別館にはピカソの作品があったらしいが、私にはピカソの素晴らしさが理解出来ないので、時間を作ってまでかんしょう鑑賞しようとは思わなかった。もう少し時間があれば、フラメンコや闘牛を見物したかった。パルセロナの出来事のせいで時間に余裕がなかった。市内で夕食をと摂り、ホテルに引き返し、十時前にはベッドに入った。

列車のストライキ
朝八時に起き、ホテルの周りを散歩した。きぶん気分はとてもよかった。朝食を摂り、十時にホテルをチッェクアウトし、また市内を回り、それからチャマルティン駅に向かった。駅に到着したのが、二時前であった。トーマスクックを見て、四時のリスボン(ポルトガル)行きに乗ろうと決めていた。駅のこうない構内に入ると、やけにこんでいる。国際駅だからしかたがないと思った。構内にはパッカーが床に腰を下ろしている姿が目立った。出発まで後二時ほどあるから、それまでにキップを買い、それからコーヒーでも飲もうと考えた。

ところが十以上ある切符売り場には人の行列が出来、何やらもめているようだった。どうしたのか、と隣の人に聞いたが、英語が通じなかった。しょうがないと思い一時間ほど並んで、やっと窓口に到達。リスボンをお願いします、と頼むと、切符売りはスペイン語で何やら言っている。私はもう一度繰り返したが、通じない。発音が悪いのだろうと思って、本を示し、指でここ、とリスボン指した。すると彼はやっと英語で一言、ストライキだ、と言ったのである。私がきょとんとしていると、もう一度ストライキだと怒鳴るように言った。私はいつ終わるのか、ゆっくりした口調で尋ねたが、英語が通じなかった。

おまけに、後ろに並んでいる、見るからに七十は過ぎている老人が、大きなラジオを肩にかけ、音楽をき聴きながら踊っている。私が係りの人と一生懸命話しているというのに、後ろのじじいはそんなことはおかまいなしに、音楽に見をゆだねながら、リラックスしている。私が「静かにしてくれ」と頼んでも、いっこうに止めようとしなかった。ふざけたじじいと思った。ストライキで列車がいつ動きだすか、私は知ることができなかった。構内で多くのパッカーが床に腰を下ろしている理由が分かった。そばにいたアメリカ人に、運転再開のことを尋ねたが、その人も分からなかった。時間はすでに五時を過ぎていた。 (つづく・感想文をお寄せ下さい)