私の帰国後、三ヵ月ぐらい経ってからだろうか、彼から手紙が来た。就職については、自分が十年勤めていた会社の下請け業者の会社で使って貰えることになった、と書いてあった。次の目標はトライアスロン完走で、その前に市内(長野県松本市)の二十キロマラソンを完走する、とも書かれてあった。ユニークでバイタリティーある人である。二時間ほどの出会いであったが、最近、彼に会いたいと思うことがある。

リスボン
私は彼とサンタアポローニア駅の中で別れた。私はホームを出て、まず、帰りの列車の時刻を確認した。気分次第でリスボンに一泊するつもりでいた。最終列車は十二時のマドリッド行きであった。マドリッドで乗り換え、ジュネーブに向かう予定だった。マドリッド到着は十時と時刻表に載っていた。その日、リスボンに泊まるかは、はっきり決めていなかったので、帰りの切符は買わずにいた。改札口でどうしようか考えていると、日本人らしい四十歳前後の夫婦も時刻表を見て、何やら話をしていた。その時は何も気にとめずにいた。五時間ほど市内見学をして、疲れたので、レストランに入った。

ウエイターに席に案内されると、隣の席に駅で会った夫婦がいるではないか。駅では話はしなかったが、お互いの存在は確認していた。男の人に「さっき、駅で一緒に時刻表を見てましたね」と声をかけられた。私は「そうですね」と返事した。私が席についた時は、彼らはすでに食事を終えていた。三十分ほど話をしただろうか、世間話と旅の話で終わった。その時の話で彼らは、最終のマドリッド行きに乗り、そこで乗り換え、バルセロナに行くと言っていた。私はまだ決めていなかったが、この後、この夫婦と一緒に面白い体験をすることになる。

マドリッド行き
最終列車にはまだ五時間ほど余裕があった。もう一度市内をぶらぶら歩いた。美術館にも入った。ガイドに載っているコインブラやポルト、ナザレにでも行こうかと思ったが、リスボンがあまりにもスペインの延長線上の町だったので、滞在する気になれず、私もマドリッド行きの最終列車に乗ることを決めた。最終列車の出発までまだ一時間以上あった。近くの港でパンをかじりながら、星を眺めていた。少し肌寒かったが、なかなかロマンチックであった。そばにはカップルがいて、男が女に寒いから、自分にもっとみっちゃく密着しろとでもいうように肩をしっかりと抱えていた。いい光景であった。
私は時間を確認して駅に行き、列車に乗り込んだ。その時、これから何が起るかは知るよしもなかった。

橋が流され不通に
出発して二時間ほど経ったころだろうか。列車が小さい駅で止まった。ホームから列車がはみ出しているほどの小さい駅であった。十分後に車内放送があり、乗客がざわめき始めた。スペイン語は一切分からない私は、みんなの行動を見て判断するしかなかった。そうこうするうちに車掌がやって来て、私にぶあいそう無愛想に列車から降りろ、というしぐさをした。その列車には約三百人が乗っていたが、みんな降ろされた。まよなか真夜中の二時だった。私は何が原因なのかさっぱり分からなかった。寒さの中で震えていると、リスボンで会った夫婦に出会った。彼らも原因が分からなかった。

そこで、そばにいたアメリカ人らしき人に、列車から降ろされた理由を尋ねた。やはり彼はアメリカ人で、スペイン語も堪能だった。彼は「ここから百キロ先にある鉄橋が流された。リスボンは小雨だったが、百キロ先の地方はごうう豪雨で、橋が流され、通行止めになっている」と教えてくれた。これからどうなるのか、聞くと、バスをチャーターしたので、それに乗り、スペインとの国境近くまで行く、とも教えてくれた。どうなるのかが分かったので、三人ともほっとした。

バスは二時間後にやって来た。その間、私はその夫婦といろいろ話しをした。夫婦は葉山に住んでおり、私が三浦というごく近くに住んでいることもあり、会話が進んだ。ご主人は美大で講師をしているとのことだった。しかし、大学内の学閥問題などで勉強が出来ず、いやになったと話した。そんな時、彼が学生時代に勉強しに来たリスボンの先生から、「こちらで教鞭をとらないか」との誘いがあり、その下見に来たわけだ。待遇は日本よりよくないらしいが、日本にいるよりは勉強が出来ると喜んでいた。

私もその当時、大学で教鞭を取ることを熱望していたので、いろいろ尋ねた。すると彼は、助教授以下は雑務や大学間の出張などが多く、まともに勉強が出来なかった、とこぼしていた。 (つづく・感想文をお寄せ下さい)