彼は専任講師という肩書だったので、出張が週に二回はあり、助教授など他の先生の手伝い、といった雑務がかなり多かったと言う。しかし、とくにいやだったことは、学閥闘争だった。学長選挙の時はかなり露骨でいやなことがあったらしい。テレビドラマを見ているようだった、と嘆いた。奥さんも美大出身で絵の教室を開いていた。そういう話を二時間程していて同じバスに乗り込んだ。車内でもいろいろ話をしたので、時間の経過はあまり苦にならなかった。

スペインに向かうにしたがい、雨足がひどくなってきた。バスに乗り込んで二時間ほど経ったころだろうか、山道に差しかかった。かなり急な坂道で箱根を登るより酷かった。窓から外を見ながら、ここから落ちたら一貫のお終わりだなと恐怖を覚えていた。坂道も頂上に差しかかったころ、前方にバスが三台止まっていた。傘をさして外に出ている人が何人かいた。外は大雨だった。私はどうしたのか興味があったので、傘を借り、外に出てみると、一台目のバスの前方に大木が三本倒れていて、道をふさいでいるではないか。人間の手では動かせそうにない大木であった。

運転手達が一台目のバスに集まって、地図を広げ、話合っている。話が決まったようで、後ろのバスから順に、来た道を戻った。夜が明けると同時に雨も嘘のように止んだ。七時に小さな村で朝食を摂った。村にはみんま民家は十軒もなく、一号車の乗客から順番に小さい食堂に入って行った。その食堂でトイレに入る時、お金を請求され頭にきた。トイレは水も流れず、大の方なんかとてもする気になれない、そんなトイレであった。男はいいが、女性は大変だったみたいで、便器にお尻をつけないでしたと笑いながら話している人がいた。

一時間ほどそこにいて、出発。今思うと、通常のポルトガルやスペインの観光では、絶対行かない村が通れ、本当のポルトガルの生活が見れたようでよかった。バスの中ではランバタが流れていた。一年前にヒットした曲だった。風景と曲がマッチしていた。帰国すると日本でもこの曲がヒットしていた。だから、この曲を聞く度に、あのポルトガルのバスの中のことを思い出す。

それはともかく、バスに四時間ほど揺られた。すでにスペインに入っているとのことだった。やっと町中に入って来た。列車の駅に到着。そこから、また列車に乗れということだった。その夫婦と一緒に乗った。すでに一時を回っていた。予定なら三時間前にマドリッドに到着しているはずだった。それから二時間してようやくマドリッド到着。夫婦は時刻表に目をやり、バルセロナ行きを調べていた。私はマドリッドで一泊し、翌朝の一番の列車でジュネーブに向かうことにしていた。

彼らは四時過ぎのバルセロナ行きに乗る。まだ一時間ほどあったので一緒に食事をした。話をしている時私が「一人で貧乏旅行です」と言ったものだから、食事を馳走してくれた。ご馳走もありがたかったが、旅行でいい人達に会った喜びも大きかった。残念なのは住所を交換するのを忘れてしまったことである。

最近、外国旅行中に出会った人達に、もう一度会いたいという思いが強くなっている。例の短大生二人を除いて。マドリッドでその夫婦を見送った。二人の背中が人混みの中に消えていった。私は駅近くのホテルを取り、八時前にはベッドに入った。
もしマドリッドでストライキがなければ、あの夫婦には会えなかったろうし、あの馬鹿女二人に会わなければ、マドリッドで一人旅の女性には会わなかったはずであるから、旅とは面白いものだ。急げばいいというものでないことも分かった。とてもいい教訓である。

スイス
ジュネーブへ
リスボンで出会った夫婦とマドリッドで別れ、翌朝一番の列車でジュネーブに向かった。五時ごろに出発した列車だったと記憶している。ジュネーブまで十五時間から十六時間かかったと思う。十五時間もかかったというのに、それほど苦にはならなかった。それはスイスの景色のおかげである。本当にスイスの景色、山並みが素晴らしかった。列車は岩々に囲まれた谷間を擦り抜けて進んで行く。時間がたっぷりあれば、列車から降りてしまいたくなる気分に何度も駆られた。それほど素晴らしい景色であった。列車は地形のせいで、乗客にこの景色を堪能して下さい、といわんばかりに、ゆっくり走っていた。 (つづく・感想文をお寄せ下さい)