ウイーン市内はとても素晴らしかった。大きな街が中世そのものであった。ウイーン美術館とオーストリア国立ギャラリーを回っただけで、午後の見物は終わってしまった。ユースホステルに戻り、一時間後に一緒に食事を、ということになり、それぞれ自分の部屋に行った。一時間後にロビーに集まった。ロビーのそばにも食堂はあるが、安いのであまり美味しくないのではと思い、私は外に出かけようと考えていた。するとその食堂の中に日本人らしき女性が座っていた。私は目と目が合ったが気にもとめずにいた。するとそばにいた男性が持前のずうずう図々しさで、彼女に話かけ、一緒に食事をすることになった。彼女は、筑波大学の三年生だという。物事をはきはき話すので、将来キャリアウーマンになるかも、などと私は勝手に想像していた。

お互いが自己紹介をして、旅の話などで盛り上がった。私は、アメリカでの生活やそれまで旅行で出会った人達のこと、森さんはなぜ仕事を辞めて一人旅に出たかといういきさつ、知り合ったばかりの彼女(名字は忘れたが名前はカスミ)の大学での勉強などで話の花が咲いた。

カスミちゃんは一浪して筑波に入学したが、大学生活にはがっかりした。まるで学生は勉強をしない。国立大学だから私立の学生よりは学問に親しんでいるのかなと思ったが、そんなことは丸っきりなく、授業料の安い分、国民に申しわけない、とこぼしていた。
私の日本の大学は真ん中ぐらいのレベルで、第一希望、第二希望校を落ちた学生が多かったせいもあり、みんな勉強をしなかった。筑波といえば難関校の一つだし、国立大学ということもあるので、学生はそれなりに勉強するだろうと思っていた私にとり、ちょっとがっかりするような話であった。
 二時間が瞬く間に過ぎてしまった。次の日の予定は、男性はミュンヘンへ、森さんはザルツブルグへ向かうということであった。

カスミちゃんは忘れてしまった。私は、本当は男性と同じようなルートを取り、ミュンヘンからロマンティク街道を旅して、ドイツの友達の家に行こうと考えていた。しかし、ウイーンがよそう予想以上に気に入ってしまったのと、この男性と同行したくないと考え、ウイーンにもう一泊することにした。これが悲劇の始まりであった。次の項で書く。

それぞれ部屋に戻り、一時間ほどして、夜ばいではないが、森さんの部屋を訪ねた。日本の住所を教えて貰い、帰国後、文通でもしたいと考えていたからだ。ところがそこにはカスミちゃんもいて、女同士の話で盛り上がっていた。少しばつが悪かったが、私は明日になると何かと忙しいだろうから、忘れないうちに日本の住所でも聞こうと思って、と切り出した。

カスミちゃんは私の目を覗きこ込むようにして「本当?」と言った。私は男心を読まれたようで、どっきとしたが、冷静に森さんの住所を聞いた。「カスミちゃんのところにも行こうと思っていたんだ」と言うと、また怪しいという目つきで私を見て、私が焦り始めるのを楽しむかのようだった。カスミちゃんとは四時間前に会ったばかりだというのに、昔からの友達のようだった。彼女が人見知りしないからだろうと思った。二時間ほど話が弾んだ。

翌朝、一緒に朝食をする約束をしていたので、八時に集まり、食事をした。男性は私達が食事を終わった時にやって来て、「今の若い者は年寄りに気を配るということしない」などぶつぶつ言いながら、トレイにパンやスープを乗せ、私達のテーブルに着いた。するとすかさずカスミちゃんが「そんなことを言うから若者にきら嫌われちゃうのよ」と、ずぱりと言い返した。カスミちゃんのいいところは、言い方に嫌みがなかったことである。同じことを言っても受け取られ方が大きく違ってくる。

われわれ三人は食事が終わっていたが、男性の食事が終わるまで、そこにいなければならない雰囲気になってしまった。食事が終わった。三人はそれぞれ違う目的地に向かうのだが、西駅からの出発というので、私はそこまで見送りに行った。森さんと男性は同じ方向なので、二人は同じプラットホームに向い、カスミちゃんは逆の方に別れて行った。

その後、森さんとは二回ほど手紙のやり取りをした。この体験記を書いたのを機に彼女に手紙でも、と思ったが、部屋中を探しても彼女の住所を書いたものが見つからなかった。森さんから手紙が来ないかなあと思う今日このごろである。カスミちゃんからは一度手紙を貰った。教員試験に失敗したので、もう一年大学に残るという手紙を最後に音信不通である。 (つづく・感想文をお寄せ下さい)