時計を見ると十時を少しだけ回っていた。窓から外を見るとまだ人が歩いていたし、車も走っていた。ガイドブックに目をやり、翌日見物する予定を考えた。そこには、「ミラノの象徴、大聖堂ドウモウとあり、オペラの殿堂スカラ座のある広場、pizza di Scalaにまず出て、エマニュエル二世アーケードを抜けた瞬間、ドウモウがワッと迫って来る:」とあった。

ワッと迫ってくるドウモウ、
それを読んだら、すぐ行ってみたくなり、ガイドブックの地図で道を調べた。フロントの人にどのぐらいで行けるのか聞くと、「歩いて二十分ほど」との答えだったので、すでに十時を回っていたが、行くことにした。ガイドブックの説明のように、スカラ座の広場piazz di Scalaに出て、エマニュエル二世アーケードを抜けると、そこにはケルンの大聖堂を見た時と全く同じ感動が押し寄せてきた。ガイドブックに書かれている通り、ワッと迫って来るもの感じ、心がふる震えた。

ケルンもそうだったが、夜見たせいかも知れない。光で照らし出されている大聖堂は、周りの建物が暗くて見えないこともあり、より大きく見えた。夜もかなり遅いというのに、観光客だろうか、人通りが途切れず、道端の店も営業していて賑やかであった。三十分は見上げていただろうか、幾ら見ても見飽きず、切りがなかった。イタリアを代表する素晴らしいゴシック建築物であった。

部屋に戻ったのはすでに十二時を過ぎていた。ベッドに入ってもすぐには眠れず、眠りに入ったのは一時を回っていたと思う。八時ぴったりに目が覚め、シャワーを浴び、食事をして、九時にはホテルを出て、プブリッチ庭園に行った。次いでブラレ絵画館、ダビンチも建築に参加したスフオルツェスコ城、ダビンチの未完成のだいり大理石像『ロンダニーニのピエタ』がある美術館も見た。次のサンタ・マリア・デッレ・グラシィエ聖堂では、新約聖書の中でキリストが「なんじらの中に私を裏切る者が一人いる」と話す場面の絵画の名作『最後の晩餐』があった。三十分ほど眺めていた。前にも書いたが、私はアメリカの大学時代、ユダに関するレポートを書いたことがあり、そのことを思い出しながら、「あれがユダか」などとなが眺めていた。それからスカラ広場に戻り、エマニュエル二世アーケードをくぐり、ドウモウに再びやって来た。
すでに二時を回っていた。食事を摂りながら、これからどうしようかと考え、ガイドブックに目をやったが、とりあえず、ミラノ大学を見物してから決めようと思った。この大学は、ただ古い建物が並んでいるだけの印象で、校内のベンチに座りながら、どこへ行くか考えた。時間は三時半を回っていた。

私はフィレンツェに行こうと決め、時刻表のトーマスクックを取り出し、時間を確認すると、三時五十五分発のフィレンツェ行きがある。あわてて中央駅まで走った。改札口で時計を見るとすでに四時を指しており、遅れたと思ったが、まだ出発していなかった。出発したのは十分後の四時十分であった。フィレンツェ到着予定時間は七時五十分だったが、それより五分早く、サンタマリアノベェッラ駅に到着した。いよいよ、ルネッサンスの発祥地の探検である。

フィレンツェ
フィレンツェと言えばルネッサンスである。とにかく町全体の構成が大きな博物館のようで、びっくりしてしまう。午後八時少し前に到着したので、夜の街を走る車と周りの建物のアンバランスさがおかしかった。それだけ、町全体が昔のものなのである。もし車が走っていなかったら、私がかつてイギリスのヨークに行った時の、中世にまよ迷い込んだ気分になった、と同じ感じを受けていたに違いない。

ガイドブックで見当をつけていた宿にバスで向かった。二十分ほど乗っていると、降りる駅名が見えたので、運転手に告げ、降ろして貰った。そこから約五分歩いて宿に到着。するとガーン。白い張紙がありイタリア語、英語、ドイツ語、フランス語、ギリシア語で、「二週間、増築、清掃工事のためお休みします」とあった。

時刻は九時を回っていた。再び、ガイドブックを開き、宿探しを始めた。近くにはなく、一度中央駅であるサンタマリアノベェッラ駅に戻った。そこから十五分歩いたところに宿があったのでそこに向かったが、その宿はすでに満室であった。
幸いその宿の人が親切で、近くにある宿に電話を入れ、空室を確認してくれた。歩いて一分もかからない場所だった。ガイドブックにも載っていなかった宿なので、とても助かった。しかもその宿は安く、部屋もきれいで、シャワーも普通に機能した。私はシャワーを浴び、すぐにベッドに入り、数分もせずに眠りに入っていた。 (つづく・感想文をお寄せ下さい)