翌朝は八時に目が覚め、シャワーを浴び、食事を摂った。フィレンツェには二日間滞在する予定でいたので、チッェクアウトをせずに宿を出た。到着時は夜だったので、バスの窓から、古い建物が多く並んでいるなあ、と思いながら見ていたが、昼間見るとまたびっくりで、本当に中世を思わせる町並みであった。これほど現代文明の車やバイクが似合わない町はないと思ったのが第一印象であった。町はいろいろなものが密集していたので、歩き回るのが楽であった。

街の中心であるドウモウ広場、ジョットの鐘、礼拝堂、すぐ裏にドウモウ美術館、ウフィシィ美術館、アカデミア美術館、サンマルコ美術館、バルジェッロ美術館、ラファエロの作品が数多くあるパラティーナ美術館など、どの美術館も素晴らしかった。二日の予定が三日間滞在することになってしまった。美術館巡りで丸二日をつい費やしてしまったからである。

ルネッサンス時代の文化を保護した、というメディチ家の礼拝堂に向かった。フィレンツェ最古の橋、ベェッキオ橋を渡ると、小さい店がずらりと並んでおり、土産品を売っていた。それからダビデ像(これは偽物)があるミケランジェロ広場に向かった。ガイドブックに歩くことを勧めるとあったので、歩いて行くことにした。アルノ川を渡り、坂道を二十分ほど上って行くと、何ということもない広場というか、ただの駐車場のような空き地に出て、そこにポツンとダビテ像が立っていた。覆いもなく風雨にさらされているせいもあり、少なくともきれいとは言えなかった。近づいて見るとかなりひび割があり、痛んでいた。ダビテ像はたいしたことはなかったが、その丘から見るフィレンツェの町並みがきれいだった。彼女どうはん同伴の夜だったら、何と素晴らしい時を過ごせただろうに、と芸もないことを考えていた。

今夜はぐっすり寝て、明日一番でローマに向かおうと、帰りの下り道を、そう考えながら歩いていると、前から二人組みの男が歩いて来た。よく見ると以前会った韓国人の二人であった。「今、ベニスから到着した」とのことだった。二十分ほど話をして別れた。まさかまた会うとはびっくりである。

三日間はあっという間に過ぎた。私は次の日五時に起き、六時十分発のローマ行きに乗った。九時半にテルミネ駅に到着。初日からローマの洗礼を受けることになる。

ローマ
ローマについて思い出す言葉は「ローマは一日にして成らず」「すべての道はローマに通ず」。それと映画「ローマの休日」。ローマには三日間滞在したが、それではとても短かった。最低一週間は必要であろう。

テルミネ駅に到着。宿はバスで二十分ほどのところにあるユースホステル(ローマオリンピックの時の選手のしゅくしゃ宿舎。宿泊費は安かったが、大きいだけのぼろぼろの建物)に決めてあり、そこに向かうバス乗り場を探していたら、数人の汚い格好の子供が私に近寄って来て、物乞いをするではないか。小銭が入っている箱を私に見せてお金を要求する。私は無視してバス停を探し始めた。するとまた違う子供達がやって来た。私はまた無視した。冷静になって周りをよく見ると、子供達のグループがあちこちにいた。

物乞いの子供達
おそらく、これを読んでいるみんなは、少しでもいいからお金をあげればいいのに、と思うかもしれないが、ヨーロッパではお金をあげようとしてさいふ財布を出した途端、財布ごとうば奪われ、逃げられてしまうケースが少なくないのだ。とくに日本人観光客がこの被害に遭いやすいそうだ。このことはドイツの友達に注意されていたし、スペインでバッグごと奪われた二人の女子の共をして警察に行った時も、警察職員にひったくりが多いから気をつけるように言われた。ローマは子供のすりが多いという。イタリアに入って約一週間経つが、ローマほど子供がむ群れているところを見たことはなかったし、物乞いをする子供もいなかった。

三番目の物乞いグループがやって来た。かわいらしい四人の女の子ではあったが、身なりは汚かった。その子達を見ていると知り合いの子供にだぶって見え、不憫な気持ちにかられた。小銭でも渡そうかなと思っていたら、真ん中の子が新聞紙を広げているのに気づいた。新聞紙の上には数枚のコインが乗っており、そこに小銭を置けばいいのかと思った。その途端、両脇の二人の子が新聞紙の下から私に気づかれないように、ズボンのポケットに手を入れてきた。 (つづく・感想文をお寄せ下さい)