その時、目の前の船で働いている七十歳ぐらいの老人と目が合った。老人が笑んでくれたので、私はすかさず、「この近くにコーヒーでも飲めるところはありませんか」と尋ねた。老人には英語が通じず、その船の五人の乗組員も英語が分からなかった。

近くの船の人を呼んで来てくれたが、その人達も英語が分からなかった。三十分ほどして、若い人がやって来て、ようやく通訳して貰えた。その時には十人以上の人が仕事の手を休め、集まっていた。英語が分かった人が、私の言いたいことをイタリア語に訳すと、その意味が分かったのか、みんなは大声で笑いだした。そして私を漁船に連れて行き、「これから食事だから、一緒に食べよう」と招待してくれたのである。

漁師と一緒に食事
私はコーヒーが飲みたかったわけだが、漁師の一人が「寒い時はこれに限る」と、床の下からポットを取り出し、中身をコップに注ぎ私に差し出した。中身はウイスキーで、それまで飲んだものとは一味違っていた。彼らは大きなテッパンを取り出し、スパゲッティーを作り、魚やたこを焼き始めた。

イタリアの昼食時間はとても長いと聞いたことがあった。私はそこに三時間もいすわ居座ることになった。若い人を通していろいろ話をしたが、私は、心の『豊か』な人達だなあと思った。イタリアば、国家財政が赤字なっているし、経済的には、日本と比べものにならないぐらい劣っている国なのに、この人達の生き方を見ると、日本の同じ年代の人達と比べ、精神的にとても豊かのように思えたのである。

三時間かけて食事をごちそうになり、私は酔っぱらっていい気分になった。四時にお礼を言ってその場を去ったが、移民局が開くまで後二時間はあるな、と時計で確認しながら、来た道を戻った。三十分ほど歩いていると、歓声が耳に飛び込んできた。その声の方に行ってみると、少年達がサッカーをやっていた。さすが本場。とてもうまい。まだ時間があったので見ることにした。とても楽しいし、面白い。なぜかというと、子供達は、自分が相手に転ばされてレフリーが笛を吹かないと、その子のレフリーに対する反応が、プロの選手がするしぐさ仕草と全く同じだったことである。私はにが笑いをしてしまった。技術もさることながら、戦術の高さが目についた。つまりみんながサッカーをよく知っているのである。あの子供達の中で競争を勝ち抜いてプロになるのだから、強いはずである。

試合が終わるまで見ていたが、満足のいくひと時であった。時間は六時を少し回っていたので、足を速め、移民局に向かった。六時半過ぎに着くと、移民局のとびら扉の前にすでに三十人ほどが列を作っていた。前に会ったアメリカ人二人は一番前に並んでいた。何で待っているのか聞くと、まだ係りの人が来ていないとの返事。すでに四十分は遅れている。男が走ってやって来て、ドアを開けた。アメリカ人など数人が文句を言うと、サッカーの試合が延長戦に入ったので遅れたと言う。信じられないことであるが、そう言ったとアメリカ人が私に通訳してくれた。

数年前にイタリアで、タンカーのしょうとつ衝突じこ事故が起こった。ナビゲーターがサッカーの試合に夢中になり、進路注意をしなかったために起こった大事故である。サッカーがそこまで根づいていることは、サッカーファンの私にとって羨ましい国ではあるが、イタリアもそうだが、ブラジルのようにワールドカップでベスト8進出の戦いに負けた時、国民が悲観して自殺したとか、監督の家が放火されたとか、監督が国に帰れないなど、行き過ぎはよくない。

一時間遅れて手続きが始まり、八時には乗船できた。イタリア人は別の部屋で手続きが出来、われわれより早く船内に入って、食堂でガヤガヤ話していた。私には四人部屋があてがわれ、そこにはすでに二人が寝っていた。私は鞄をベッドの上に置き、食堂へ向い、ガイドブックを見ながらコーヒーを飲みピザを食べた。その日の出来事やその後のことなどを考えていたら、あっと言う間に出港時間。十時を回ったので、私はベッドに戻った。

パトラスへ
十八時間でギリシアのパトラスに到着する。夜の十時にベッドに入り、翌日の一時に起きた。丸十五時間もベッドの中にいたことになる。一時に目が覚め、食事をしながら、外を眺め、ガイドブック片手に、パトラスに着いてからの宿をどうしようか考えていた。ガイドブックにはパトラスのことが載っていなかったので、困った。パトラス到着まで、まだ四時間あまりあった。 (つづく・感想文をせ下さい)