私のトルコからの電話に、直接洋子さんが出て、びっくりしていた。それはそうだろう。二時間前に私の家に電話を入れ、私がその時、ドイツにいると言われ、二時間後に私から電話を貰ったのだから。自殺した女性の名前を聞いて愕然とした。かなり親しかったし、帰国するたびに会っていた。つき合っていたというわけではなかったが、私は心の中で、この旅行を終え帰国したら、本格的につき合いたいと考えていた女性だった。

最後に会った時彼女は、仕事で悩んでいた。彼女は希望していた仕事の試験に合格したのはいいが、元の会社が快く辞めさせてくれなかったのだ。私がイギリスにいた時、手紙を書いても返事が来なかった。それ以前は必ず返事をくれたので、仕事が忙しいのだろうと思っていた。私は、彼女が自殺してから四ヵ月後に、そのことを知ったわけである。

洋子さんは、私があわてたように電話をしてきたことを不思議がった。そこで例の金縛りに合った時の話をすると、「もしかしたらそれは、自殺した彼女かも知れない」と言った。「でも彼女が自殺した日には何も感じなかった」と私が話すと、洋子さんは「実は昨日、友達と二人で彼女の家に行った」と言った。そこで、私が出した数通の手紙を見せられ、彼女が死んだことを私がまだ知らないことを知った。私はその時、もしかしたらと思った。彼女は四つ年下だったにもかかわらず、私を名で呼んでいた。(アメリカにいると名で呼び合うことが多い)。今だに、あれが霊だったのか、夢だったのかは定かではないが、私が日本に電話を入れたこと、その二時間前に洋子さんから電話が私の家にあったこと、その二時間後に私が洋子さんに電話を入れ、友達の自殺を知ったこと、は事実なのである。彼女のご冥福を祈りたい。

友人や恩師にも電話
コインが後四枚残っている。せっかくの機会だから、友達、先生など四人に電話を入れることにした。そばにいた若者は、戻ってくるよ、と言い残し、マッチを置いて近くの店に行ってしまった。

友達二人、高校の恩師一人、日本の大学の恩師一人に電話を入れた。四時間以上は話したと思う。お袋と洋子さんへの電話を含めると、六時間近く日本と通話をしたことになる。若者が何度となく見に来てくれた。彼は呆れたというジャスチヤーをしたが、ここぞとばかりに電話をしてしまった。日本円で約二百円だった六枚のコインで、日本までの国際電話五時間。日本円に換算してどのぐらいになるのだろうかと思った。冷静に考え、二百円でこんなうまい話があろうはずがないと、不安がよぎった。

オペレーターは仲介しなかったが、自動的に相手払いになっているのではないのか、と不安になってきた。帰国後、友達や恩師に確認したところ、請求はされなかったとのこと。神様のような電話であった。

時間は朝方四時ごろだった。ちょうど電話が終わった時、若者が戻って来て、近くの喫茶店のようなところに案内された。そこには若者が六人いて、そのうちの一人は彼の兄だった。彼らは私と話がしたいと、この時間まで待っていたと言う。私を電話のところまで案内してくれた時、歩きながら、私は日本人でアメリカの大学を卒業し、これから日本に一時帰国し、またアメリカに戻って勉強するつもりだと、いうことを話した。

彼らと三十分ほど雑談していると、彼の兄が私にお願いがある、と言い出した。そのお願いというのは、もし私がアメリカに戻ったら、アメリカに遊びに来るように、という内容の手紙を出して貰いたい、ということだった。なぜかと尋ねると、彼らはアメリカで働きたいのだそうだ。アメリカに知り合いがいて、招待の手紙などを貰わないと、観光ビザでさえ入手出来ないというわけだ。

私だと学生ではあるが、身元がしっかりしている。私のような人物から、遊びに来いという手紙を貰えれば、観光ビザなら発給してくれるそうだ。私はその場で0Kし、私のアメリカの住所を教えた。学生証を見せてくれというので、私の学生証に加えワシントン州のIDカード(身分証明書)を見せたら、彼らはこれなら、アメリカに行けると喜んでいた。
彼らと握手をして別れた。すでに日も昇り、車が走っていた。時間は六時を過ぎていた。

彼らには申しわけないことをしたが、私がアメリカに行ったのは五年後の夏であった。

エフェス
パトモスのところで、そこからヨハネがトルコの七つの教会に、それから起こるであろうことを手紙に書いて送った、ということを紹介したが、その七つの教会がこのエフェス(古代名はエフェソス)周辺にある。遺跡はほとんど破壊されいるが、今なお多くの遺跡が残っているエフェス。文化、宗教などの中心地だった。そして今では最も重要な観光地になっている。 (つづく・感想文をお寄せ下さい)