生徒数は八十人ぐらいだったと思うが、六十人近くが日本人で、他はイラン人、アラビア人、クエート人であった。私のクラスも十二人中七人が日本人で、残りはアラビア人が二人、クエート人が二人、イラン人が一人だった。私も日本人だけど、日本人だらけだった。英語学校で三ヵ月学んだが、英語が一向に上達しない。伸びないはずである。休み時間や学校が終わった後は、全て日本語だったのだから。

十五歳でプリグネント
英語学校時代の出来事。
三月十六日にシアトルに着いて、英語学校に通った当初の三ヵ月間の生活場所は、学校が紹介してくれたアメリカ人の家庭だった。一ヵ月三百八十ドル(当時一ドル二百五十八円)支払った。そこにお世話になって二週間ほど経ったころ、隣家の人が来て、下宿の人と何やら深刻そうな話をしていた。私が世話になった家の人は、隣人とはかなり仲がいいらしく、夕食によく一緒に出かけていた。私も隣人とは何度か話をしたことがあり、感じのいい人という印象を持っていた。

その人が、時々鼻をすすり、目をハンカチで覆いながら話をしている。その話の端々に「pregnant」(プリグネント=妊娠という意味)という言葉が聞こえた。後で分かったんだが、隣人の娘が妊娠したが、相手の男が誰だか分からないというのである。「こんなことになるなんて」と嘆いていたらしい。私も何度か話したことがある娘で、十五歳でとてもかわいかった。ただ、どうみても十五歳には見えないほど色っぽかった。

そして数ヵ月後に十五歳にして母親になった。このような話なら日本でもままあることだが、たまたま一年後にその下宿だった家を訪れたところ、例の隣人の娘が二人目を出産したと言う。二人目も父親が誰だか分からなかった。この時私は、アメリカ人はセックスに関して加減だな、と思った。

生徒の子供の育児室
後のことだが、大学四年の時、夏休みを利用して近くの高校で、三週間ほど聴講させて貰った。大学は高校より三週間ぐらい早く夏休みが始まるので、その高校の授業をしっかり見ることが出来た。初日のことだが、校内に入り予定していたクラスを探していると、何やら赤ちゃんの泣き声がする。行ってみると十五人ぐらいのかわいい赤ちゃんが一人の女性にあやされていた。その時、初めに思ったことは「さすが、アメリカ。男女同権の国」ということだ。女性の先生の仕事がしやすいように、校内に保育園があるんだと考えた。

ところが 、世話をしていた女性に聞くと、赤ちゃんは、何と女子生徒の子供達だというのである。開いた口がふさがらない、とはこのことである。ここワシントン州シアトルなんか田舎だから、ニューヨークやロサンジェルスなどはもっとすご凄いのだろうと想像し、後にそのことを友人に尋ねたら、「その通り、もっと凄い」ということだった。

後先になるがその高校で聴講した時の話を続ける。
アメリカの高校生の第一印象は大人だなと思ったことだ。見かけもそうだけれど、とにかく個人主義の国というだけあって、他人と自分を比べずに、じこ自己しゅちょう主張するものを何らかの形で持っているといういんしょう印象だった。

主体性のない日本人
それに対して日本人は、まず他人と自分を比べ、他人とあまり変わらないと思うと安心感を持つ。日本人はみんなが行くから俺も行く、みんながするから俺もする、みんなが買うから俺も買う、など全く個人の主体性が見受けられない。

例えだが、最近のテレビのインタビューで、クリスマスはどのように過ごしますかと聞かれ、ほとんどの女性が「二人でホテルで過ごします」と答えていた。いずれも同じような答え。個性がないのにがっかりさせられたが、ここで少し頭にくるのは、このインタビューに答えた女の恥じらいのなさ。だって二人でホテルで過ごすイコールあれでしょう。まさか二人で一晩中トランプとか、お話というわけではないでしょう。あのように答えることがオープンで、今風だと思うのだろうか。ひかえめという伝統的日本女性のいいところは持ち続けて貰いたい、というのが私の切なる願いであり、この場を借り、おじさんぽい主張をしておきたい。

イラン・イラク戦争
それはともかく、英語学校の授業の時、戦争の話になった。するとふだん普段あまりしゃべらないクエート人がイラン・イラク戦争の話を始めた。
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