私が彼と会った時、彼は十六歳で、英語はアメリカ人とほとんど同じぐらい話せた。と言うのは当然で、彼は移民者として六歳の時にアメリカに渡って来たからだ。アメリカについてそれまで私は、世界の正義者で、世界をリードしているというイメージを持っていた。彼と出会うまでではあるが。彼とは三時間近く話をした。そして彼からショッキングな話を聞いた。彼は「僕は今までにすでに五回も家族が変わっているんですよ」と語った。初め私はその意味が分からず、問い直した。

移民者はアメリカに来たばかりの時、生活が出来ないので子供をアメリカ人に引き取って貰うらしい。このようなことは日常茶飯事で、その時、彼はすでに五番目の家庭で世話になっていた。そこは、まあまあらしい。四番目が最低で、召使いのようにこき使われたと話していた。

この話を聞いてアメリカという国は、外面はいいが、内面はいい加減だと思った。しかし、彼は「母国にいるよりはいいよ」と笑った。それから「心を割って話せる両親や友達が欲しい。自分でお金をため、大学へ行って勉強したい」とも話していた。

アメリカ生活三ヵ月目にこのような話が聞けた。国が違うとはいえ、自分の今までの甘さを痛感し、これからアメリカで自分にどれだけ厳しくやっていけるか、挑戦しようと決意した。それと同時に、アメリカという国は一体どういう国なのか、凄く興味が沸いてきた。彼に会って話をしたことが、アメリカ滞在五年半の原動力でもあった。

彼ら移民者は逆境と戦っているのであり、日々戦争のように生活している。平和ぼけをしているわれわれ日本人は彼らの姿勢を見習う必要があると思った。彼らはアメリカにいる以上、人種差別という大きな壁、崩れそうにない壁と戦っていかなければならないのである。

夫婦のどろどろした話
英語学校をやめた直後の話だが、ある男女について書いてみたい。この話は、大人のどろどろした部分を露骨に表したものである。英語学校を四ヵ月ほどでやめ、大学に入学できることになった。ちょうどその時期が六月の中ごろで、大学は九月から始まる予定だった。私は、大学では寮で生活することにしていたので、後三ヵ月はそれまでお世話になっている家庭に留まろうか、短いけれどアパートを借りようか、迷っていた。

すると英語学校で会ったある夫婦(名前は真理子さんと幸司=ゆきじ=さん。初め、私は「こうじ」と教えられていた。後で分かったことだが、彼らは不倫関係で、日本から逃げて来ていた)が、私と一緒にアパートをシェアー(二ベッドルームの部屋を、二人でお金を出し合って借りること。アメリカの大学街には、シェアーリングハウスというのが多く、一軒家を五人ぐらいで借りることがあり、全く知らない者同士が一軒家で生活することもある)しないか、と持ちかけてきた。

幸司さんと真理子さんは、私より二週間ほど後にアメリカにやって来た。英語は全く出来なかったが、人生をもう一度考え直そうとアメリカに来たと言っていたので、当初、私は彼らに好意を持ったものだ。三ヵ月ぐらいだからいいか、と軽い気持ちで同居OKの返事をした。

二人は私より十二ほど年上だった。私が二十歳の時だったので、彼らは三十前後であった。一ヵ月は何ごともなく過ぎた。
 そのアパートは設備が最高で、プールや泡風呂、サウナ、広いラウンジにはビリヤードや体をきた鍛える器具が備えつけらていた。とにかく環境は抜群によかった。ある日、私がサウナから帰って来ると、電話が鳴った。日本からだった。私は、誰にも電話番号を教えていなかったので、幸司、真理子さんにかかってきたと推察した。女性であった。声からすると三十前後と想像した。何かもじもじした言い方で、「そこに幸司(ゆきじ・ここで初めて本当の名前を知る)はいますか」とたず尋ねた。さらに「貴方はどなたですか」と聞かれ、「幸司(こうじ)さんと一緒に暮らしている者です」と答えた。

彼女は私にかまをかけ、「彼女(真理子さん)は元気ですか」と尋ねた。私は何も知らなかったので、「真理子さんも元気ですよ」と答えた。彼女は「幸司(こうじ)さんと話ができますか」と聞いた。(最初、私が幸司(こうじ)と言ったので、彼女も幸司(こうじ)さんと呼んだ)。私は、「二人は買い物に出かけたばかりだから一時間ぐらいは戻って来ません」と告げた。すると彼女は急に緊迫した声になり「力を貸して下さい」と、私に哀願するように言った。それから三十分ほど、どろどろした男女の話を聞かされた。(つづく・感想文をお寄せ下さい)