幸司、真理子さんのカップルが、私は少しおかしいとは感じていた。なぜなら、英語学校のクラス名簿を見た時、二人の名字が違っていたからだ。しかしその時私は、人それぞれだから、ぐらいに軽く考えていた。

そしてこの電話で、幸司(こうじ)さんの名前を、本当は「ゆきじ」と呼ぶことなどを知った。私は電話を切ろうと思ったが、電話の相手の女性が泣いているので、切るに切れなかった。また私の一番苦手な、お涙だ頂戴劇が始まってしまった。彼女は、生後九ヵ月の赤ちゃんがいると言って、電話口に出すのである。これには参った。私は、女房は要らないが、子供は欲しい、と思っているくらいの男だから、赤ちゃんの愛らしい声に参ってしまった。そのため、彼女の誘導尋問に乗ってしまった。
「二人はいつからアメリカにいるんでしょうか」と聞かれた。「二ヵ月前に英語学校に入学し、一ヵ月前からこのアパートに住んでいる」ことなど、いろいろ情報を与えてしまった。私も二人が、二年前ぐらいから不倫関係にあったこと、五ヵ月前に姿を消したこと、二ヵ月前にアメリカに入国しているのだから、三ヵ月間は日本にいたのだろう、などを知った。

さらに「住所を教えほしい」と頼まれ、私は「貴女の一方的な話だけでは、判断できませんので、教えるわけにはいきません」と答えた。彼女も「そうでしょうね、突然こんな話を聞かされ、協力して下さいなどと言われても困りますよね」としんみょう神妙になった。「でも、教えて下さい。お願いします」と涙声で哀願された。しかも、あたかも「お母さんに協力してあげて」とでも言うような、天使のつぶやきと言ってもいい赤ちゃんの声が聞こえ、私は思わず住所を教えてしまった。ただ、私は「このことは幸司さんに話しますよ」と言い、「帰り次第電話をしてくれるように」という頼みを聞き、彼女の電話番号を教えて貰い電話を切った。

私の心は、サウナ上がりの心地よい気持ちが吹き飛び、真理子さんに分からないように、このことを幸司さんだけにどう伝えるか、で頭がいっぱいになった。一時間後、二人が戻って来た。私は幸司さんに、近くのショッピングモールまでつき合ってよと頼み、二人だけで外に出た。そして、車に乗るとすぐ、その出来事を伝えた。さらに、軽い食事ができるところに入り、詳しく話した。幸司さんは私の話を真剣なまなざしで聞いていた。私は十分ほど、協力して欲しいと泣きつかれたことや赤ちゃんのことなどを一方的に話した。私の話が終わった時、幸司さんの口をついて出た言葉は「よく電話番号が分かったな」であった。「どうするの」という私の問いに、「どうしたらいいか分からない、とにかく真理子にこのことを話さなければ」と困った様子だった。私は電話での話が事実なのかどうか、聞く勇気はなかった。小心者の私らしい。

ちょうど夕食時で、真理子さんが食事を作っているところに、私達二人は帰って行った。「最後の晩餐」のような気持ちになり、私は食事が喉を通らなかった。食事が終わり、幸司さんが「あの女から電話があったらしい」と切り出した。詳しくは私からということで、私は幸司さんに話したことを繰り返した。真理子さんも神妙に聞いていた。

私の話が終わると、真理子さんも幸司さんと同じで「よくここの電話番号が分かったなあ」とつぶやいた。「多分、あいつが教えたんだ」などと二人で話していた。私は「どういうことなのか」と二人に説明を求めた。二人は夫婦ではなかった。幸司さんは二年前から夫婦関係がうまくいかず、離婚しようと考えていた。その時、真理子さんと出会った、などと話した。そして幸司さんは、「子供を作ったのが間違いだった」と頭を抱えていた。その言葉を聞いて子供大好き人間の私は、何ていい加減な人だ、と腹が立った。

その時(一九八二年七月)から計算し、子供が生後九ヵ月だということは、子供の出生日は一九八一年十一月前後とすいてい推定できる。それより約十ヵ月前(一九八一年一月前後と予想)に夫婦関係があったことになる。その時はすでに離婚を考え、真理子さんともつき合っていたのであるから、私としては許せなく、男の風上に置けない奴だと思った。

幸司さんは、日本時間に合わせ、その日の真夜中に電話をかけていた。次の日幸司さんは、参ったなあと言わんばかりに、「とにかく一度日本に帰るよ」と言った。私に飛行機のチケットの予約を頼み、二週間後に幸司さんと真理子さんは一時帰国した。そして三週間して真理子さんだけが戻って来た。「幸司さんは」と聞くと、話が長引きそうで、決着が着くまで日本にいるとのことだった。おおよその内容はこうである。 (つづく・感想文をお寄せ下さい)