キリスト教は必須
ワシントン大学がOKなら、ワシントン州の大学は全てOKだろうと言われた。それならワシントン大学に入学しよう、と決めかけていたバスの中で、ふとこじんまりしたキャンパスが目に入った。どうせここも入学はOKなんだろうな、という軽い気持ちで訪ねた。そして、大学訪問はここで最後にしようと決めた。ところが、ここでの返事がNOだった。理由はごく単純だった。「ここはキリスト教の大学だから、キリスト教徒以外の入学は認められない」と言うのである。そして、ワシントン大学へ入学した方がいい、と逆に勧められる始末。

私もそう思った。帰り際にあることを思い出さなければ、私はワシントン大学に入学していただろうと思う。あることとは、英文学、大きく言えばヨーロッパ文学を理解するには、必ずキリスト教にぶつかり、キリスト教をしっかり勉強する必要がある、ということだった。しかし、日本の大学では専門に勉強する機会がないし、難しいので教えられる先生もいなかった。

言い換えれば、英文学を学ぶと、バイブル(聖書は誤訳。バイブルはギリシャ語のビブリオ「本」いう意味からきている)にぶつかる。バイブルには、旧約と新約とがあり、旧約が三十九、新約が二十七の本から成り立っている。つまりバイブルとは六十六冊の本の集まりなのである。入学がこのようにバイブルすなわ即ち、キリスト教を学びたくて、何としてもノースウエスト大学に入学したい、と思い始めた。これが私が波瀾万丈の経験を積むきっかけとなった。

大学と何度も話し合いを持ったが、キリスト教徒以外の人を入学させた前例がないことが問題になった。私の執拗な申し出で、何とか学部長と話す機会を持つことが出来たが、その学部長もワシントン大学へ行くことを強く勧め、一日目の話し合いは終わった。その学部長と次の話し合いの予約を取りつけた。私は一日目と同じ繰り返しを避け、OKを貰うための作戦を立てた。私は、大嘘つきになろうと決心したのである。

私は、次のように話を切り出した。「私は人生に迷っています。今まで何の信仰も持っておらず、宗教という言葉も私にはむえん無縁で、神という存在すら考えたことがありません」と。さらに「この大学を訪れたのもちょっとした偶然からです(これは本当のこと)。

ワシントン大学からはすでに入学OKの返事を貰っているので、そちらへ行こうと考えていた矢先にこの大学が目に入りました。こじんまりしたいい大学という印象で、偶然校内の教会が目に入り、生まれて初めて教会に入りました。その時の気持ちは言葉では言い表せないぐらいこうごう神々しく、厳粛かつ静寂な雰囲気は今まで味わったことがありませんでした。それ以来、この大学で勉強したいという気持ちにか駆られ、このようにお願いしている次第であります。どうか、私に人生の糧になるような何かを、ここで学ばせて下さい」と、感情を込めて語った。

話すだけ話し、「三日後にまた来ます」と言い置いて帰宅した。三日後に行って、学部長を含め五人の前で、前回と同じ内容の話を繰り返した。私が話し終えると、「隣の部屋で少し待っていてくれ」と言われた。十五分後に五人が入って来て、いきなり「おめでとう」と握手攻めにあった。私はその時、入学OKの決定を確信した。自分自身の大嘘の情けなさといや卑しさと同時に、見事なまでの嘘での入学OKの勝利に、複雑な思いで握手しながら、「サンキュウ」と演技をしていた。とりあえず、第一関門を突破した。しかし、波乱に飛んだ経験を積むのはこれからである。

アメリカ人の挨拶
ところで、英語学校に通っていた時は、友人は全て日本人。大学に入学すると、つき合う人はほとんどアメリカ人になった。そして、全てアメリカの習慣に従いながら生活することになった。大学の全学生数は千二百人程度で、ほとんどの生徒は寮生活をしていた。ニューヨークから来た生徒もいた。キャンパスはこじんまりしており、生徒数も少ないから、みんな顔見知りになった。

その中で少しとまどったことは挨拶である。彼ら、彼女らは初対面だというのに馴れ馴れしく挨拶してくる。私は新入生ということもあり、初日に何度も話しかけられた。若かった(当時二十歳)私は、とくにきれいな女性のあの笑顔の挨拶がたまらなく好きだった。時には、この女性は私に気があるのではないかと勘違いするほど、ほほ笑みながら挨拶をする。でもそれは形だけのものだと後で気づいた。 (つづく・感想文をお寄せ下さい)