前号で紹介したように、それが私の勉強のスケジュール表であった。二学期目からはこれを実行した。机上で考えるほど楽ではなく、実行後一週間で鼻血を出し、めまいを二、三度感じたほどだった。朝、起きるのがとても辛く、目覚まし時計を三つ買い込み、五時十分に一つ目、二十分に二つ目、三十分に三つ目といった具合にセットし、寒い朝と格闘した。この学期の三週間目が過ぎようとしていたころが一番辛かった。私の中で二人の自分が戦っているのに気づいた。

一人は、これを何とか乗り切り、これからの自分の人生の糧となるものを、ここで身につけよという主張。もう一人は、こんなにがんばって、仮にこの大学を卒業したからといって何になるんだ。それに親との約束で、アメリカに滞在できるのは一年間なんだから、旅行でもしながら楽しくやれよ、という主張。ちょうどそのころ、第一回目の定期テストがあり、葛藤しながらテストを受けた。その二日後にある授業のテストの答案が返された。前学期もその先生に習っていたので、厳しいことは知っていた。その先生から前学期はCマイナスを貰っていた。この時のテストは、手応えはあったものの、最下位でなければいい、というぐらいの気持ちで結果を受け取った。

Aマイナス
すると、何とAマイナスだった。私の答案かと確認したが、間違いない。この時ほどテストの点で喜んだことはない。するとそれまで、とにかくがんばれと主張していた一人が、やればできるじゃないか、と歓喜の声を上げ祝福してくれた。するともう一人が、人生はそんなにあま甘くはない。一ついい結果を貰っただけでいい気になるな、とたしなめる。そして次の日に返して貰ったテストは、またまたCマイナス。「ほうら見たことか」という声が私の心をぐさりと突き刺した。残りのテスト結果は、前回よりはいいものの、鼻血を出し、めまいを感じながら一日に十時間も勉強しているにしては、到底満足のいくものではなかった。

それに追い打ちをかけるように大学から手紙がきて、また例の赤紙に例のごとく書かれてあった。それを読んだ直後、悲観的な私の一人が、もうここまできたら例のことをやるしかないよ、とささやいた。その時、もう一人の私は反論することなく黙ったままでいた。例のこととはカンニング(英語ではcheatといいcunningはただ狡いという意味)だった。そして初めてカンニングを経験することになる。

第二回目の定期テストで、一番難しいといわれていた授業のテストのちょくぜん直前、自分の下敷に、日本語でいろいろ書いてしまったのである。結果的にそれはほとんど役に立たず、点数的にも五点ぐらい得した程度だった。それからというもの罪悪感にさいなまれ、二、三週間憂鬱な気分で過ごした。カンニングを勧めた私のかたわ片割れは、「慣れれば平気になる。これからもやれよ。見つからなければ関係ないよ」とあおった。もう一人の正義派の私は、「素直に自分の今の感情をぶんせき分析してみろ、いい気分か」と尋ね、「その罪悪感と憂鬱な気分こそお前の本当の気持ちなのだ」と言った。こう考えるようになり、私は目から鱗が落ち、カンニングをするのをやめた。

この学期でもいろいろ学んだ。とにかく天才でない人は、こつこつやるしかないということを知った。とりわけ私はもの覚えがいい方ではないので、こつこつやるしかないのであり、時には、その努力が報われないことがあるだろうが、少しでも前に進む努力は必要だ、ということを知った気がする。

結局この学期は、前回よりすべてのクラスの成績が上がり、BBマイナス Cプラス C Bプラスという成績であった。自分の努力の割には上がっていないと思いつつ、大学からこの調子で成績を上げて行けばいいだろうという通知を貰い、それから卒業までの二年間は、例の赤い手紙を貰うことはなかった。入学して初めての夏休み(約三ヵ月間)は日本に帰らず、サーマースクールに通い英語力を磨き次の新学期に備えた。 (つづく・感想文をお寄せ下さい)