相手を考える日本語
もう一つ例を挙げよう。私が大学一年(日本の)の時、ある友人が日本拳法部に入った。すると道端などどこでも先輩に会うと、先輩の前で犬がお座りをするようにひざまずき「先輩、おかばんを持たせて下さい」と言っているのを見た。「先輩、おかばんを持ちます」という言い方はしなかった。つまり、「持たせて下さい」という言い方は、相手の意志を問い、相手の意志の結果を待っており、相手に選択の余地を与える言い方である。逆に「持ちます」という言い方をすれば、自分の意志が前面に出て、先輩である相手の意志に選択の余地を与えない。

先輩、後輩だとこれは失礼な言い方になるのである。日本語というのは、常に相手のことを何かしら考えながら、発している言語と言えよう。日本人の気質がそうだから、このような言語が生まれたのか、言語の特徴がこうだから日本人の気質がこうなったのかは、専門家に聞いてみなくては分からない。

受動態は頻繁に使わない
私の経験から英語に関して言えば、be動詞プラス過去分詞形の受け身形(受動態)は頻繁には使わない。また、英語が受け身形になっていても、日本語で「される」などとは辞書に載っていないことがある。英語の授業のようになって申し訳無いが、例えば「I am interested in〜」や「I am surprised〜」、「I am shocked〜」、「I am bored〜」、「I am tired〜」、「I am excited〜」は受け身の形になっているが、「興味を持たされる」とか「驚かされる」、「ショックさせられる」、「退屈させられる」、「疲れさせられる」、「興奮させられる」というような言い方は一切しない。「興味を持つ」とか「疲れる」とか「興奮する」など能動的に訳す。

英語は、自分という個人「I」から能動的に出発しているように思う。つまり私というのが常に中心的存在と言える。日本語は、私というのが中心であることには変わりがないが、韓国語や英語に比べて私の比重が軽く、常に相手「You」という存在を考えながら話す言語と言えないだろうか。

ここまでくどくど書いてきたが、私が言いたいことは、英語教育を通して、われわれの母語である日本語の位置づけをしっかりするべきだということである。英語教育はその役割も担っていると信じている。国語だけ勉強していても、日本語という言語がどういうものか理解するのは難しいと思う。もう一つの言語、英語と比較することで、われわれが使用している母語をより深く理解することが出来るのではないか。あまりにも受験勉強のために過ぎ、もっと大事なことを置き去りにしている。私が英語教育に期待することは、日本に外国人がたくさん入ってきている中で、これから私達は、外国人と席を隣にして、一緒に仲良くやって行かなければならない時代を迎える。外国人の理解の仕方を今から英語を通して学生に教えて貰いたいのである。

帰国女子がいじめにあう
新聞に、帰国子女いじめ、という記事が掲載されていた。その帰国子女が中学一年生の時らしいが、掃除当番の生徒の一人がさぼったため、先生は彼のグループの五人全員を怒り、居残りを命じたという。すると彼は「なぜ僕達も一緒に残され、怒られなければいけないのか」と先生に食ってかかった。先生は連帯責任ということを強く主張したらしいが、彼は理解できない。彼はアメリカに四年間いたという。日本で育った人なら、おかしいと思いつつ、日本とはそういうところだと割り切るが、彼は違った。その先生は、父母面談の時にその生徒の母親に、「彼は協調性に大きく欠けている」と言ったらしい。私は先生こそ、「もっと勉強しろ」と腹が立った。

さらに、彼はアメリカに四年もいたので、英語の先生より英語の発音がいい。たまに彼が先生の発音を注意すると、先生からいやみを言われた。本を読めと言われ読むと、アメリカ人のような発音なので、他の生徒がいやみを言う。このように表に出てくる例はごく少数で、もっといっぱいどろどろしたものがあると思う。帰国子女といっても、同じ日本人にさえこうなのだから、外国人への理解はほど遠いものであることは間違いないだろう。

生徒以上に先生がもっと勉強しなければいけないだろう。少なくとも英語圏の中にいる、という考えを持っている英語の先生に、英語を教えて貰いたい。英語の先生の中には、割合、学生時代に外国留学や旅行を体験している人が多いので、生徒の外国文化への理解を深めて貰うためにも、英語の本当の教育を行うべきではないだろうか。
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