帰国後、私は縁あって神奈川県立の高校で教鞭を取ったことがあり、自分のアメリカでの経験を授業中に話をした。その話に生徒達は熱心に耳を傾けてくれた。英語の授業は「聞かせて」いたが、雑談は「聴いてくれていた」と思う。私は、もっと外国人と庶民レベルで交流し、お互いに理解しあえるような何かを、英語の授業で教えて貰いたい、と常々考えている。英語の授業はその役割をも担っていると思うのである。

 伝道者の書との遭遇
 ところで、アメリカでの大学生活が一年目を過ぎ、勉強も軌道に乗り始めていたが、何かしっくりこないでいた。その時に巡り会ったのがバイブルの中の「伝導者の書」であった。私はそれを読んだ時、心が震え、一晩に五回も読み返してしまった。あの時の気持ちは今でも覚えている。
 その内容を抜粋すると、「空しい、空しい、すべてが空しい。日の下でどんなに苦労しても、それが人の何の益になろうか。一つの時代は去り、次の時代が来る。しかし、地はいつまでも変わらない。昔起こったことは、これからも起こる。日の下には新しいものは一つもない。(略)今や、私は、私より先にエルサレムにいただれよりも知恵を増し加えた。私の心は多くの知恵と知識を得た。私は一心に知恵と知識で、狂気と愚かさを知ろうとした。それもまた風を追うようなものであることを知った。実に、知恵が多くなれば悩みも多くなり、知識を増す者は悲しみを増す。(略)笑いか、馬鹿らしいか、快楽か、それが一体何になろうか。日の下には何一つ益になるものはない。財産が増えると、寄食者も増える。持主にとって何の益になろう。彼はそれを目で見るだけである。(略)あなたは正しすぎではいけない。知恵がありすぎでもいけない。なぜ、あなたは自分をほろ滅ぼそうとするのか」というものであった。

 これは、ある人のバビロニア囚人時代の作とされている。囚人が一日中働かされ、何の喜びもなく、ただ食べて飲んで、そして寝る。明日という希望など全く持ちえない時代のことである。とかく、自分の労苦に満足を見いだすより他に何もよいことがない。人は自分のために働いているのではなく、誰かのために働いている。それなら、自分の生まれてきた理由は何であったのだろう。まったく意味がないと、彼らは神をのろ呪ったことだろう。この文章は囚人の重労働の状態をこくめい克明に伝えたものである。





 このことは、今の日本のサラリーマンの姿に似ているように思える。
 一軒の家を買うため、一生働きづめの姿。子供たちの出生率も一家族二人を切った。二十五年後には四人に一人が六十五歳以上になるという。今の年金生活者はいいが、われわれの面倒をみてくれる人がいないことになる。老後も自分の力で生きていくことになる。何のためにこの世に生きているのか。働くためか。人生が自分の思うように進むことは数少なく、努力した分むく報われるといことも、この世の中ではまれ希であろう。いやな人間が多くいるし、成功をねた妬み、けお蹴落とそうとする奴もいるはずである。また幸運は少ないが、不運は至るところに落とし穴を掘っている。
 この「伝導者の書」は、今の私にとっても、ずっしりと重たい文章である。
これと関連したシェイクスピアの言葉を紹介したい。
 「どこへ逃げたらよいのだろう。何も悪いことはしなかった。でもここは人間の世の中ということを思い出したわ。この世間は悪いことをすると誉められ、良いことをする時は危険な愚かな振る舞いだと思われたりする」。
 この言葉は、人間世界の恐ろしさを語ったものである。この社会はよいことだからと言って必ずしも受け入れられず、正しいことを発言したとしても、みんなに非難されることが少なくない。また逆に、みんながおかしいと思っていることでさえ、平気で行われてしまったり、正しい者や心優しい者がじゅなんしゃ受難者になってしまう社会でもある。
 「伝導者の書」とシェイクスピアの言葉をいつも思い出している。

バイブルを読みあさる
 私が、もしこの世で一冊の本を取れと言われたら、迷わずバイブルを取る。私はバイブルをむさぼるように読みあさった。テストのための勉強ではない。自分のためであった。そうするとそれまで興味がなかった歴史や哲学まで勉強するようになった。
本当に勉強した、と自分で言い切れる。そしてバイブルや歴史、哲学、文学を学びながら、人間というものの本質が見られたような気がした。バイブルも文学の中に入れるとして、文学が私に教えてくれたものは、何千年経っても人間の感情は変わっていないということだった。
(つづく・感想文をお寄せ下さい)