「それならサッカーボールをお持ちですね」と言う係官の声が聞こえた。「勿論」と答えている。「ではボールを見せてもらいます」と言い出した。みんなは、指揮者でもいるかのように一斉に「0h my God」という言葉を漏らした。その係官に「車から全員降りて下さい」と言われ、降りながら、みんなは口々に「Good Luck」と言い残し、車から離れた。私には、彼らの言葉が無情に聞こえた。係官が、降りた人数を確認し、ボールを見るため後ろのドアを開けようとした。その時の私の気持ち、分っていただけるだろうか。

死ぬ直前の人が、一瞬で自分の人生を振り返る、というように、私も一瞬で、アメリカ生活の約二年間を思い出した。それと同時に、私は死ぬ直前の人とは違い、まだまだ先がある身なので、その先までが頭に浮かんできた。強制送還になると、アメリカへは一生入国できず、へたをしたら私の孫の代までアメリカ入国禁止になるのではないだろうか。帰国したらしたで、近所では殺人をしでかしたから強制送還になったらしいと、やじ馬的な噂が流れ、私の奥さん、子供、身内がかたみ片身の狭い思いをして生きて行かなければならない、などということまで、頭をよぎった。

ドアが開けられ、係官は「ここで何をしているの」と不審顔で尋ねる。私はとっさに寝ていた振りをして、一体何があったんだ、と言わんばかりの態度を取った。友達が助けてくれるだろうと思っていると、キャプテンが近寄って来た。私はその第一声を今でも忘れないし、その言葉が、キリスト教信者を今一つ信じられない原因 の一つにしている。彼はこう言ったのである。「こんなところで一体何やっているんだ。お前はもう一台の車に乗っているとばかり思っていたのに」と。私はその台詞に目が点になり、何が何だか分からなくなった。そのうちに数人の係官がやって来て、みんなを他のところへ連れていった。

私はこの件以来、人間は思いがけない台詞や出来事に出くわすと、金縛り状態になり、頭の中が真っ白になってしまうんだということが分かった。学生証と身分証明書を持っていたため、係官は学校とアメリカ移民局に確認の電話を入れた。確認が取れたところで、今回は大目にみようということになった。この後三時間ほど説教を受け、解放された。私はその時、まだ放心状態でいたが、とりあえずほっとしていると、アメリカ人はいい気なものである。面白かったとか、強制送還されないでよかったなど…、車の中は三十分ほど私のことで持ちきりだった。アメリカ人は、人の気持ちを汲み取れない奴らだと思った。今でもこの考えに変わりはない。

次の日にはすでにこの事件が学校中に広まっており、人に会うたびにいろいろ聞かれた。チャペルの時間に、前の週にあった大きな出来事を発表する時間が設けられていて、発表者五人の中にサッカー部員がいた。いやな予感が走った。そしてやはり、例の出来事を全部話したのである。しかも彼は、いらんことに、私を舞台の前に呼びつけたのである。私は隠れようとしたが時すでに遅く、手を引っ張られて舞台に上がらざるを得なかった。

勿論初めてのことである。それも学生が千人近くいる前でである。みんなは、口笛を吹いたり拍手をしたりで、私を歓迎してくれているようである。私はすぐ元の席に戻ろうと思ったが、彼はまたいらんことに、「せっかく前に立ったんだから、何か話をしろ」と言い出した。仕方なく私は「このような体験は日本にいたら絶対できなかった。このような経験を与えたくれたこの大学にとても感謝している。同時に、このような経験のきっかけを作ってくれたサッカー部の仲間にも感謝している。

この大学を選んでよかった」と皮肉を込めて話したのだが、みんなは何を思ったのか、席を立ち拍手を始めるではないか。アメリカ人はよく感動的な話の時や、敬意を相手に表する時に、立ち上がって拍手をする。私は心中でに苦笑いをしながら、困ったものだと何度もつぶやいていた。

サッカーのコーチ
このサッカー部のことだが、偶然、監督が教会で知り合った人がコーチをしてくれることになった。イタリア代表としてワールドカップに出場、ベスト4進出をかけ、ぺレのいるブラジルと戦ったという凄いけいれき経歴の持ち主だった。その試合は二対一で負けはしたものの、その一点は彼のダイビングヘッドで入れたものだった。食事に招待された時、自慢話の一つとして一時間ほど聞かされた。もう五十歳は過ぎており、背も小さいのだが、驚いたのはふとももの太さと胸板の厚さである。サッカーファンとしては夢のような人との出会いであった。
(つづく・感想文をお寄せ下さい)