彼の名はイエロー・ランドロフといい、貿易会社を経営していると話していた。翌年、イタリアでワールドカップが開かれるので、われわれサッカー部員をイタリアに招待してくれる、ということだった。何とふつ太っぱら腹な社長だと思った。社員が百人はいるというし、招待された家は、勿論プールつき。十畳ぐらいの広さの部屋が七つもあり、小さなバスケットコートが一面あるなど、とにかくすばらしい家ではあった。イタリアに行こう、という誘いにみんなは歓声を上げたが、結局、招待されて行けたのは三人だけだった。それはともかく、彼は日本人で知り合いになったのは私が初めてらしく、そういうことからか、私にはいろいろよくしてくれた。とてもいい思い出である。

短気なクリスチャン
また、サッカー部の部員にとても短気な男がいた。ある試合の時にこういうことが起こった。彼のポジションは攻撃だったので、相手のディフェンダーに厳しくマークされていた。彼のところにいいパスが渡り、一点かなと思うと相手のディフェンダーは反則すれすれの技を使い、その場をしのいだ。ボールを取られた彼はレフリーに猛烈に抗議した。確かに相手のディフェンスのプレーは、反則を取ってもおかしくないほどのものだった。ボールを取られた彼の転び方が、あまりにも大げさだったせいか、レフリーは反則にしなかった。すると彼は、使ってはいけない言葉を連発し、ついに退場になってしまった。

その退場は彼にとって初めてのことだったが、短気な彼は、いつもそういうぎりぎりの状態でプレーをしていたことも確かだ。時間は前半の二十五分ぐらいのところだったと記憶している。われわれは十人で戦わなければならなくなったが、前半はどうにかゼロで折り返した。ハーフタイムになった時、コーチはいたが、監督の姿が見えない。コーチの指示が終わり、後三分ぐらいで試合が始まるという時、私は水を飲みに外に出た。するとそこで、監督と退場になった彼の二人がお祈りをしているではないか。彼の暴言についての祈りだった。監督は「暴言は一時的に悪魔が乗り移ったもので彼の本意ではない」と祈りを捧げていた。

私はその場面を見た時、すぐに思い出したのは、メキシコ映画の一シーンである。悪いことをした泥棒が教会へ行って懺悔をしている姿だった。一時間ほど懺悔をすると、泥棒の罪が許されてしまう、というものであった。懺悔をし、許され、教会からの帰りにまた泥棒をする、そんな場面を思い出したのである。結局、その泥棒にとって懺悔は、自分に都合のいいものなのである。私は、祈りを捧げたことによってどうにかなるという、他力本願的な考えが気に入らない。私はクリスチャンではないからそう思うのかも知れないが。

クリスチャンには・・
ここでついでといっては何だが、なぜ私がクリスチャンになり得なかったか、あるいは宗教というものを持ち得なかったか、を説明しよう。旧約聖書の創世記二十二章を読んだからであった。この章には、アブラハムという人が神から、自分の息子イサクをいけにえとして捧げなさいと言われ、彼の取った行動と神の言葉が紹介されている。父親のアブラハムは何の迷いもなく、刀を持つと自分の息子イサクに斬りつけようとした。そこで神はストップをかける。神は「イサクに手を出してはならない。(略)あなたが神を恐れていることがよく分かった」と言ったのだ。この話はキリスト教の中では、父親の取った行動は信仰心の強さを表したものとして評価が高い。しかし私にとって二つ気に入らないことがある。

一つは父親が自分の子供をいけにえに捧げようというのに、まったく迷いがないという点。もう一つは、神が平気で人間を試すという、神の行為が嫌いである。神が平気で人間を試すという物語はヨブ記にも書かれている。一読して貰いたい。とくに一つ目の父親の行動を信仰心の強さだととっている点で私は、キリスト教とは弱い人間が信仰するものではなく、強い人間が信仰するのだと解釈してしまった。そして、私は弱い人間だから、宗教とは無縁である、と結論づけてしまった。

確かに、キリスト教には「なるほど」とうなずける教義は少なくない。しかし全てを受け入れることはできないし、旧約に出てくる神の行動も理解できないところがある。だからキリスト教の大学で四年も学んだのに、最後まで宗教に抵抗を感じていた。
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