やっとメキシコとの国境に到着した。多くの人が訪れるようで、一キロほどの車の列ができており、メキシコに入国するまでに一時間ほどかかった。入国手続きはスムーズにいき、初訪問の期待を胸にメキシコに入国した。入国してから四十五分ほど車を走らせたが、周りは砂漠地帯で何もなかった。不毛の地という感じであった。

そのうち、ぽつぽつ建物が見えてきた。そして、それから十五分してやっと市内に入った。メキシコの第一印象は、古い、ぼろぼろという感じだった。バスが走っているのを見たが、それが何と古くおんぼろなことか。日本の四十年前ぐらいのバスであった。その上、バスの窓が全部割れており、天井には穴らしきものが幾つも開いていたし、乗降口のドアもなかった。まっ黒な煙をもうもうと吐き出していた。あれでよく動いているなあ、と感心させられたほどだ。「こんな状態になるまで使って貰い、こう言うのをバス冥利に尽きると言うんだろうなあ」と思わず感心してしまった。

メキシコに入ってそのバスを見た時、私は高知県土佐清水市で小さい時に見たバスを思い出していた。メキシコの話からはずれてすまないが、私が小さいころ、父母の故郷の高知県土佐清水市に帰省した時に見たバスが、トラック式のバスであった。つまり前がぽこっと出ているバスである。私はその時初めて見てこんなバスもあるんだなあと思った。

母は「昔のバスはみんなこの形をしていたのよ」と説明してくれた。土佐清水市は両親の生まれ故郷で、とにかく田舎なのである。高知県の足摺岬に近い、中村という駅で列車を降り、バス停で一時間ぐらい待った記憶がある。バス停にあった時刻表によると、土佐清水市行きのバスは二時間に一本ほどしか出ていなかった。

そこからバスに乗って、ゆうに二時間はかかった。今は道がほそう舗装され、トンネルも通り、わずか三十分ぐらいで行けるらしい。脱線ついでに私の姓、遠近(とおちか)というのはとても珍しい名字だが、父母の故郷には多くある名である。

話をメキシコに戻す。
信号待ちで車を止めた。するといきなり五人の子供が私達の車に取りつき、雑巾で車を拭き始めるではないか。私は「お前ら何やってんだ」と怒鳴っても、手を休めない。車の中には友人の女性が二人いて、一人が気が動転して泣き始めた。子供達に「止めろ」と命じても手を止めない。車内はちょっとしたパニックに陥った。一分ほどして子供達は手を動かすのを止めると、その中の一人が窓から車の中に手を差し込み、「金をくれ」というしぐさをする。

私が「車を拭いてくれとお前達に頼んだ覚えはない」と言っても、子供達は「金をくれ」を繰り返すだけであった。私は若くて経験不足ということもあり、「ふざけるな」と言葉を投げ捨て、信号が青になると車を発進させようとした。すると子供の一人が車の前に立ちはだかった。私は車を止め「どけ」と大声で怒鳴った。しかし、その子供は車の前から動こうとはしなかった。私達の車の後ろに列ができ、クラクションを鳴らす車が何台もあった。

一緒に来た女性が泣いているし、私も気が立っていたので、強引に子供の体の横をすり抜けようとしたが、その方向に子供はいどう移動する。そうこうしているうちに信号が赤に変わってしまった。私は「金をあげる気は全くない」と怒った口調で言った。すると向こうはプリーズをつけて「お金を下さい」とあいがん哀願しだした。しかし私は「ノー」と答え、信号が青になるやいなや車を急発進させた。同乗の女性はまだしくしく泣いている。入国早々散々な目に遭った。

しかし、あのような子供達がいるのは、いたしかたないことだというのが、車を止めて、市内を歩き回っている時に気づいた。例えば道端で親子連れが寝ていたり、五歳ぐらいのかわいい女の子が、ガムやチョコレートを買ってくれ、と私達につきまとうのである。十回は言い寄られた。子供が靴磨きをしていたり、ブレイクダンスを踊ってお金を稼いでいた。子供だけでなく、大人もギターなどの楽器を使って、路上でお金を稼いでいた。

私達はレストランへ入った。メニューを見て値段の安さにびっくりである。二百円ぐらいでメインディシュが食べられる。メキシコなので辛めではあったが、なかなかの味であった。ただ、原因がその料理だったのかは分からないが、一時間後に下痢をしてしまった。もしかしたら水道で飲んだ水のせいかも知れないが。食べた料理が全部出てしまい、お尻はひりひりするので、満足に車の運転もできなかった。 (つづく・感想文をお寄せ下さい)