ジャパゆきさん
私の横でフイリピン女性と思われる美人が、誰かを待っているようだった。初めは全く気に留めていなかったが、一時間も同じような状態でいて、彼女の電話のやり取りが耳に入り、相手とコミニュケーションが取れずに困っている、ということが伺えた。私は「誰かお待ちですか」と英語で声をかけた。彼女は「迎えに来るはずの人が見つからないのです」と困った表情。話を聞いてみると、日本にダンサーとして働きに来たという。こういう形で連れてこられ、酷使されるんだろうなと思いつつ、彼女と話をしていた。二時間待ってもお互いの待ち人来たらず。

彼女は持っていたメモを取り出し、また電話をかけようとした。そこで私は「私が話してみよう」と言って、メモを受け取り、電話をした。メモには二つの電話番号が書いてあった。一つ目に電話をしたが通じなかった。二つ目の番号が通じた。五分ほど、こちらの状況を話した。その人は彼女のことは知らなかったらしく、「十五分ぐらいしたらまた電話を入れてくれ」ということだった。

十五分後に電話を入れ、やっと話が分かる人が出た。こちらの状況と私と彼女の関係を五分ほど説明した。そして「私でさえすでに三時間以上は待っているのだから、彼女は五時間以上だろう」と付け加えた。電話の相手は私に「若い男を二人迎えにやっているから、彼女にそのことを説明してくれ」と頼んで電話を切った。

それから三十分ほどして、男二人が写真を片手にやって来た。そばにいた私が今までの経緯を説明した。二人は「お世話になった」と言っただけで、彼女を連れて行った。「いかにも」という恰好の人達であった。その十分後に弟がやって来た。道路工事で車が全く動かなかったそうだ。例の二人もそうだったのだろう。

帰国早々散々だった。その日、家に着いたのは夜中の二時ごろだった。久々の布団にもぐり込んだものの、連れて行かれた彼女の後ろ姿が目に焼きついていて、なかなか寝つくことができなかった。

巨人になった感覚
家に着いたのが夜中の二時。床についたのが三時ぐらいだったと思う。二年半ぶりのわが家での第一印象は(みんなはそんなことは馬鹿げたこと、と思うかも知れないが)、自分が巨人になったように感じたことである。ガリバーの気分を少し味わえたような気がした。でもこれは極めて単純なことである。アメリカの家は天井も高く、スペースも広い。また日本のような低いテーブルはないから、アメリカではいつも視線は腰ぐらいのところに置く。ところが日本では、畳の上に置いたテーブルは膝までの高さしかないため、いきなり視線が低くなる。そのようなギャップのせいだろうか、自分が巨人になったような感覚にとらわれたのである。

夜中の三時ごろに布団に入り、起きたのが十二時間後のその日の午後三時ごろだった。それから風呂を沸かしてもらい「やっぱり日本の風呂はいいなあ」と、おやじのような台詞をはきながら、四十分ほど入っていた。アメリカはほとんどシャワーであった。日本のように風呂で一日の疲れを取るという考えがないのである。しかし、スポーツ選手などが練習や試合の後に入る泡ぶろ(英語でジィュグジィー)はある。でもこれは一般化してはいない。風呂から上がり、新聞のテレビ版を見るとほとんど知らない番組であった。三十分ほど新聞を読み、散歩がてら、アルバイトニユースでも買おうと近くのスリーエフに足を運んだ。

植木屋でアルバイト
その途中、運命の出会いにともいえる、高校卒業以来一度も会ったことがない友達(ここではKとしておこう)、Kに会った。久しぶりとお互い声をかけ、私は、アメリカで学校を続ける資金が欲しくて日本に帰って来たことなどを話した。するとKは「俺が働いているところでアルバイトをやってくれないか」と頼む。

とても忙しくて働き手が欲しかったんだ、と言う。職種は植木屋であった。私は特殊な仕事はできないと言うと、お前のような力持ちが最適なんだと勧める。日給は一万円。私は肉体労働(3K仕事)が嫌いではない。外で働く場合が多く、夏は暑いし、冬は寒いので、体は大変ではあるが、お金を稼いでいるという実感を体で感じることができるからだ。

植木屋のアルバイトは面白かった。横須賀の三笠公園にある植木の半分は私達が植えたものであるし、防衛大学にも一ヵ月ほど木を植えに通った。Kが働いている会社には正社員が四人いて、アルバイトの私を含め五人が働いていた。そのうちの三人が同級生。一人が一つ下で、もう一人が親方だった。私より十五歳ほど年上だったと思う。
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