とくに「私は詐欺の被害になんか遭わない、絶対大丈夫」とたかをくくっている人に限って、深みにはまりやすい。宗教の勧誘もそうだが、とにかく気をつけないといけない。

あの親方は今どこにいるのか分からないが、風の便りでは、暴力団に追い回されているということだった。もしかしたら、コンクリートと共にどこかに沈んでいるかも知れない。今思っても酷い話だが、もしあのままあの仕事が順調で給料もきちんと貰っていたら、私はアメリカに戻らず、足袋をは履いて植木をいじっていたかも知れない。でも今では無理だ。太り過ぎで、木の方が私をいやがりそうだ。

ところで私は、休学していた日本の大学は休学が二年以上になると、復学できなくなるという知らせを受け、翌年二月に再び帰国、日本の大学に二年間通い、卒業してまたアメリカに戻り、ノースウエスト大学に復学、そこを卒業後、ワシントン大学の大学院に入学することになる。

第五章 アメリカでの生活
私の車
アメリカの大学に復学してからのこと。
ノースウエスト大学の三年になった時、私は車を手に入れた。知り合いからの貰い物である。日本なら十年前に廃車になってもおかしくないというほど古いスバルだった。走っているのが不思議なほどだった。でも、とりあえず走るのでいろいろと便利だった。ただでくれるというし、アメリカでは、ガソリンが日本の約三分の一ぐらいの価格だし、保険の加入料も安い。しかも日本のような車検がない。排気ガステストが年に一度あり、そこでシールを貰って、それをバックプレイトに貼るだけである。それも十五ドルで済んだ。日本と比べればただみたいなものである。車の維持費はとても安く、私のような貧乏学生は大助かりであった。その車にはしっかり一年は乗らせて貰った。
 私のイギリス行きが決まって、その車を真面目な貧乏学生に譲った。それというのも、前の所有者からそうしなさい、と言われていたからである。とにかく、日本車というのは長持ちして、壊れない。ガソリンも食わないし、それほど高い値段ではない。だから、アメリカで日本車が売れるのは無理でないと思う。

ドアとラジオを盗まれる
その車で、友達と町中に買い物に行った時のことである。駐車場がどこも満杯で止める場所に困っていた。三十分ほどさが探したが、これではきりがないと思い、思い切って路上に止めることにした。そして、路上駐車ができる場所を探したが、安心して止められる四番とか三番通りには、スペースがなかった。安全だが、買い物をする場所までゆうに二十分は歩かなければならない五番か六番通りでもしょうがないかな、と探したが、そこも満杯。

結局、一番止めたくなかった一番か二番通りで駐車場所を探すハメになってしまった。そこはとても危険な通りで、付近に住んでいる人さえ避ける通りだった。昼間は確かにそれほど危なさそうに見えない。でもよく見ると、何かを狙っているような感じの黒人や、白人の麻薬デーラーのような人達が少なくない。結局四十分も探し、探し疲れ、一緒に行った日本人の友人も「ここでも仕方ないね」と言ったので、一番通りから一つはずれた道端に止めることにした。

段ボールをドアに
二時間ほど買い物をして車に戻ってみると、なんと右(助手席側)のドアがないではないか。中を見るとラジオなども盗られている。やられた、と思ったが、後の祭り。ぽんこつだからあまり頭にこなかった。車をその場に置きっぱなしにはできないので、一時しのぎにと、二人でダンボールを探し、強力ガムテープを買い、それで盗まれたドアの部分をふさいだ。

次の日に修理に持って行くと、高い修理費に頭にきて修理を断った。アメリカでは人件費が高いため、車の修理にも目が飛び出るほどお金がかかる。だからほとんどのアメリカ人は、ちょっとした修理は自分でする。結局、私も強度のあるダンボールを見つけ、そこに貼り直した。それで半年はもった。その半年の間に一回、白バイに注意を受けた。二ヵ月前にドアとラジオが盗まれたと話すと、それは「unlucky」(不運だったな)と同情し、許してくれた。日本なら整備不良でいくらかの罰金を払わなければならなかっただろう。ドアなんか盗んでどうするのかと友達に聞くと、ドアが目的ではなくドアウインドだと言う。中には車ごと持って行ってしまうケースもあるそうだ。 (つづく・感想文をお寄せ下さい)