彼女は勤勉な人で、学ぶということにとても積極的であった。だから昼間、私が入学することになる大学院のあるワシントン大学で勉強していた。そして夜、六時から一時まで働いていた。倒れた時の医師の診断は、疲労からきた貧血ということだった。確かに誰でも彼女の働きざまを見ていればそう思うだろうし、その診断に誰もがなっとく納得した。私だってどれだけ貧血状態になったか分からない。酷い時は勉強中にいきなり吐き気を催したこともあったくらいである。

私は彼女とよく話をした。多分境遇が似ていたからであろう。いつも勉強やレポートについて話をしていた記憶がある。彼女は倒れたことを考え、一般に四年間で卒業する大学を、五年間かけて卒業することにした。一学期に十六から二十単位を毎学期取れば、四年間で卒業が可能であるが、それを彼女は、一学期最低必要取得単位数を十二に決め、それを実行することにした。これだと二つクラスが減ることになり、体に余裕が出てくるというわけだ。サマースクールでその二つの単位を取れば帳尻が合い、やはり四年間で卒業することができるが、サマースクールは他の学期と比べて授業料が高いのである。彼女が決めたゆとりある単位取得策は、賢明なものであった。

一年後に再度倒れる
それから約一年後のことである。彼女がまた倒れたという話が伝わってきた。今度は大学の講義中のことだった。彼女が通っていたワシントン大学の医学部は非常に有名で、すぐその付属病院に運ばれた。検査に一週間ほどかかると聞いたので、倒れてから三日後に見舞いに行った。かなり元気そうであった。「レポートやテストのことで最近無理していたから」と、苦笑いしながら話してくれた。そういえば、どの大学も最後のテストとレポート提出日の時期はきつかった。

それから十日ぐらい経って、彼女が旦那さんと一緒にレストランにやって来た。二人が入って来た姿を初めに見たのが私で、「退院おめでとうございます。テストが受けられず、レポート提出ができなくてどうなりましたか」など、軽い気持ちで声をかけた。その時の彼女の返事は元気がなかった。授業で教授とあまり折り合いがよくないのか、などと想像した。

キミさん夫婦は二時間ほどかけて食事をし、レストランのオーナーと話をして帰って行った。帰る後ろ姿がやけに悲しそうに見えた。夫婦の間に会話がなかった、ということもそう思わせた一つの理由だろう。

日本に帰るキミさん
仕事が終わり、オーナーは「みんなに話がある」と私たちを集めた。話はキミさんのことであった。オーナーは「キミさんは仕事をやめて、日本に帰る」とぽつりと言った。理由を問うと、オーナーは声をつまらせ、涙を流したので、われわれはようい容易ならざる事態だということが理解できた。気を取り直したオーナーは「末期のガンだ」と、みんなの耳に届くか届かないぐらいの小さな声で言った。みんなは呆然としてしまった。数十秒の沈黙があった。われわれは誰もその沈黙を破る勇気を持ち合わせていなかった。少し間があり、一番年上の従業員が「いつ日本へ帰るの」と聞くと、オーナーは、家などを全て処分し、一週間後に旦那さんも一緒に日本に帰ると話した。

ガン告知
話が横道にそれるが、ガンの告知ということについて、日本とアメリカの大きな違いを話そう。日本ではまだ議論の段階で、患者への告知に関しては未解決であるが、アメリカではガンを患者に告知する。そうするが、あまり面倒をみない。日本では考えられないことである。キミさんは、アメリカ人の医師に「直る見込みがないので入院しても意味がない」と言われ、日本に帰国することを決めたという。多分、日本なら最後まで最善を尽くすだろう。アメリカのように、もうだめだから入院する必要はないというやり方は、日本では受け入れにくいに違いない。

しかし、もし私がアメリカ側のやり方を弁護していいと言うのなら、日本のように最後まで患者に対して最善を尽くすのが、果たして患者にとって幸せなのだろうかと考えるのである。体に何本ものくだ管を刺され、苦しみながら何ヵ月も生きる。これで生きていると言えるのだろうか。そうではない、というのがアメリカの考え方だと思う。これは私の想像で、このテーマでアメリカ人と話したことがないから、断定的には言えないが…。 (つづく・感想文をお寄せ下さい)