いつか機会があったらガン告知についてアメリカ人と話してみたい。アメリカのように入院しても無駄だというのもどうかと思うが、どちらが患者に対して親切なのかどうかは、私には今の段階で結論づけることは出来ない。とにかくキミさんは、アメリカの医師に後三ヵ月の命、と言われたらしい。みんなは突然後三ヵ月の命、と言われたらどう感じるだろうね。多分、これは言われた本人以外理解できないことだろう。

キミさんは日本に帰り、神奈川県で自動車の免許を取る、横浜の二俣川試験所の目の前にある、ガン専門の病院に入院した。帰国して見舞に私は後六ヵ月で大学卒業というところにきていたから、卒業を親に報告のため帰国する予定でいた。その時にキミさんを見舞いに行こうと思っていたが、アメリカの医師に後三ヵ月と言われたそうだから、間に合うか心配だった。

帰国してすぐに電話を入れた。彼女は入院していた。次の日にすぐに見舞いに行った。病室は六人部屋で、顔を見ればすぐに分かると思っていたのに、同室の六人の顔を見ても、どの人がキミさんなのか分からない。あの人かなと、寝ている人の顔を見比べていると、看護婦さんが「あの人がキミさんよ」と教えてくれた。看護婦さんの声で目を覚ましたキミさんは、私の顔を見ると「あら、よっちゃんじゃないの」とかすれた声を上げた。

そして「いつ帰ってきたの」と聞かれ、「昨日」と答えた。「大学はどうだった」と聞くので、「卒業した。成績はトップ5だったのでオーナースチューデントに選ばれた」と話すと、「よっちゃんは勉強と仕事を両立させ、がんばっていたもんね」と小さい声で言った。

そしてキミさんはこれからどうするのと尋ねるので、「勉強が面白くなってきたので、ワシントン大学の大学院に進むことにした」と話した。彼女は「やりたい時にしっかりやっときなさいよ」と、小さい声だったが、励ますように言ってくれた。その言葉は今でも私の心のおくそこ奥底に焼きついている。彼女の体には、管が三本刺さっていていたいた痛々しく、ベッドの横には心電図の機械のようなものが置いてあった。体はや痩せてしまい、顔もげっそりしていて、髪の毛はかなり抜けいた。「胃を半分取ってしまい、食事は一日に五回に分け、少しずつ食べている」と言った。

アメリカに戻る前にまた顔を出した。外見は前とあまり変わっていないように、私には見えた。「がんばって行ってらっしゃい」と優しい声をかけられ、「冬休みに帰って来る予定なので、また来ます」と言って病室を後にした。アメリカに帰り、早速、シアトルの日本レストランに行き、みんなにキミさんのことを報告した。手紙を書いても返事がないから心配だったという同僚に、私がキミさんから預かってきた言葉のメッセージを伝えた。「手紙を貰っても手が不自由で書けない。しかし、みなさんの手紙には心から感謝している」と。

死んだキミさん
私は冬に日本に帰る予定だったが、ヨーロッパの大学での講師の話が舞い込み、イギリスに行くことになってしまい、冬には帰国できず、三月に帰国した。すぐに見舞に行った。すると以前キミさんが寝ていた病室に、キミさんの姿はなかった。「もしかたら」と悪い予感が沸いた。看護婦さんに尋ねると、「彼女の強い希望で退院した」との返事だった。看護婦さんにキミさんの家の電話番号を調べて貰った。実家に帰ってから電話をした。

一回目、二回目、三回目と時間を開けて電話を繰り返しかけたが、誰も出なかった。夜の十一時を回った時、これで出なかったら明日にしよう、と思い、またダイヤルを回した。呼び鈴を五回鳴らしても誰も出ないので、切ろうとしたその時、よ呼びりん鈴が止み、受話器の向こうから男の声で「ハロー」という返事があった。「キミさんの旦那さんですか」と聞くと、「そうだ」と答え、「君は誰ですか」と問い返された。キミさんと一緒に日本レストランで働いていたことなどを話した。

そして「キミさんと話しをしても構わないですか」と頼むと、すぐさま「NO、彼女は死んだ」という答えが返ってきた。私は言葉をうし失ってしまった。彼女が死んだのは九月の終わりごろだった。私がアメリカに戻って一ヵ月もしないうちに亡くなっていた。

住所を聞き、次の日に線香を上げに行った。旦那さんと一時間ほど話をした。彼は日本に滞在し続ける、と言った。愛した女性の国にいたいと言うのである。彼はその時、ソニーの英語教室で英語を教えていた。そして今、一生懸命に日本語を勉強しているとも言った。「キミがいるうちに日本語の勉強をしておけばよかった」とこうかい後悔していた。
       (つづく・感想文をお寄せ下さい)