女性のバックの中に銃
確かあれは私が本を買うために、町中まで行った時の出来事である。本を数冊選んで、数人が並んでいるレジの前に立った。その時、前の女性が二冊の本と自分のバックを落とした。すると、そのバックから化粧品・財布などと一緒に小型拳銃も出てきた。私がそれを見て、「オー」と思わず声を出すと、彼女は「私を襲ったらこれで撃つわよ」と笑った。「銃はいつも持っているのですか」と聞くと、「いつも持っているわ」。当然というふうに答えた。

銃と言えば、日本人留学生が「フリーズ」という単語を知らなかったばかりに、撃たれて死んでしまう、という事件が発生した。ご家族にはお気の毒で、お慰めを言う言葉もない。とても残念なことである。

服部君の悲劇
その日本人留学生、服部君のことについて私の意見を述べてみたい。「freeze(フリーズ)、という言葉を知らなかったので射殺された」、と言われているが、私はそうは思わない。日本とアメリカとの生活習慣や文化の違いが理解できずに、命を落としてしまったと考える。余りにもその代償は大きい。

今から書くことは、新聞にも同じような記事が出ていた。私も友達から全く同じようなことを言われた。現に経験した。例えば、車の故障などで困ったことが起こったとする。周りを見回しても、公衆電話が見当たらない。人影もない。すると家が一軒ある。そこで電話を借りようと玄関まで行き、電話を貸してくれとお願いをする。日本なら全く問題のないことだろうが、もしこれがアメリカなら撃たれて死んでも文句は言えない、ということになる。なぜなら、私有地に無断で入ったからという理由で。

私は一度、似たような経験をした。二キロほど歩いて疲れたので、道端沿いの芝生に座っていたら、馬のように太った男に、大声で「出て行け」とどやされた。その延長が服部君のいた痛ましい事件である。日本人の私は、それだったらしっかりかこ囲いをしろと言いたいが、囲いのある家は多くない。それでいて、「私有地に勝手に入り、不審な行動をしているととられ、撃たれても仕方ない」と言うのが、アメリカ人の言い分である。

私は友人と一緒にある友達の家に行こうとしていた。道に迷い、誰かに尋ねようということになった。すると私の友達は一軒の家の前に立ち、玄関のドアまでは五メートルはあるという離れた位置から、大声で「すみません」と、何度も叫んだ。五回ほど叫んだら、おばあちゃんが二階から顔を出し「どうしたの」と声をかけてきた。訪ね先の友人の名前を言い、家はどこか聞くと、「その家ならこの道をまっすぐ行けばいいのよ」と教えてくれ、私達は友達の家の場所をつ突きと止めることができた。

私は彼が玄関の前まで行かなかったのはなぜか、聞いた。彼の答えは簡単だった。「ここはアメリカだよ。こっちは私有地に勝手に入ったら撃たれても仕方がない、ということになるんだ。あのおばあちゃんだって、玄関のドアを開けて応答せずに、二階の窓から受け答えしただろう。警戒しているわけだ。これがアメリカ合衆国の現状をよく知っている人の、日常行動だと思うよ」と彼は話した。

確かに私が歩き疲れて座り込んだ時に怒鳴ったあの男も、かなりの距離を保っていた。友人の話に、なるほどなあと感心させられた。われわれが日本で、日常何も気にも止めずにいることが、外国人には不思議に思えたりすることは多々あることである。

もう一度繰り返すが、服部君は「フリーズ」という単語が分からずに殺されたのではなく、アメリカ人と日本人の考えの違いが分からなかったために殺されたのだ。代償は大き過ぎたが、それを教訓に日本人がアメリカへ行く際に「日米の違い」を考えるようになってくれれば、彼の死は無駄にならないだろう。私がここでこのような体験記が書けるのも単なる偶然に過ぎない、とこの事件を知って思った。ご冥福を祈りたい。

原始時代、人は素手や石で争い、後に日本では刀を使い、インディアンは槍や弓を使って殺し合いをしていた。ところが西洋人が鉄砲を使用するようになると、指先だけで人を確実に殺せるようになってしまった。チョークの粉ほどのプルトニュームで、人類を破滅させることが出来たり、建物は破壊しないで生物だけ殺せるといった中性子爆弾など、人殺しの武器がどこまでエスカレートするのだろう、と私は人間として大きな不安を抱いている。

とにかく、そのようなものに関与している人間が、理性を持って何とかしようと決意することに期待したい。 (つづく・感想文をお寄せ下さい)