私の友人は、死ぬ三年前に交通事故に遭い、輸血をした。その血液がエイズに感染していたのである。八四年に発病、大学を休学して入院した。友達と見舞に行くことになった。しかし、病院の受付で、面会はできない、と断られた。その後、何度か門前払い。それを聞いた友人の両親が、私達の気持ちをくんでくれ、やっと面会にこぎ着けた。

受付は一階にあり、そこから看護婦に案内された場所は別館の地下三階だった。とてもじめじめした古くて暗い病棟にある病室だった。彼のそばまで行くことが出来ず、窓越しにマイクを通して十分ほど話した。

かつての彼の体格は私より一回りは大きかったが、二ヵ月ぶりに見た彼は、細っていた。私は言葉がなかった。順番に話をしようということになり、私の番になったが、私は何を言っていいか分からず、「またバスケをしよう」としか言えず、マイクを次の友達に渡した。

三ヵ月後に彼は死んだ。その日、学校は休みになり、
全校生徒が校内の教会に集まり、祈りを捧げた。私はとても悲しく、一人、部屋でボーとしていた。それから日がた経つにつれ、エイズはホモセクシャルな人が罹るといわれるようになった。今、こんな考を持っている人はごく少数だとは思うが、当時、世間にそんな考えが広まり、新聞もそう取り上げた。だから、八五年前後にエイズで亡くなった人たちの親族は、いわれのない風評に大いに苦しんだと思う。

いずれにしても、友達四人ぐらいが集まってエイズの話をすると、必ずと言っていいほどその内の一人が「おれの友達がエイズで死んだよ」と言う。それぐらいエイズ問題が、アメリカでは日常的な出来事として起こっていた。当時、アメリカではエイズ問題はかなり深刻であった。

アメリカ人の中には血を売って食いつないでいる人がいる。とくにホームレスの人達がそうだという。ある時、薄汚れた身なりの人達が三十人ほど列を作っているのを見たことがある。何だろうなと思い、そばの人に尋ねたら、「献血だ」という返事。「献血をすると二十ドルぐらい貰える」と話してくれた。

私はあの時、あんな汚い人達の血は貰いたくないと思った。もちろん勿論、あの人達の血液だった、と言うわけではないが、案の定、日本で手術の際にアメリカから輸入した血液を使い、エイズに罹かってしまった患者が出てしまった。これも、泣くに泣けない、酷い話である。

多いホモ・レズ
アメリカでホモとレズが多いのはなぜだろうか、と疑問を持った。というのも、アメリカに滞在すれば分かるのだが、差別には人種差別を筆頭に男女差別があり、次にホモやレズの人権を訴えている(つまり差別されている)人達が多いことに気づく。また驚きだが、彼ら彼女らは、自分がホモ、レズであることを少しもは恥ずかしいと思っていない。

シアトルにブロードウエイという、通称「おかま通り」と呼ばれている通りがある。まるっきり変な通りというのではなく、誰もがショッピングや食事などに出かける大通りであるが、呼ばれる通りのおかま通りで、私より一回りぐらい体が大きくてひげ髭をは生やしている男同士が、腕を組んだりキスをしている光景に出くわす。これを見た時、これがアメリカなんだと、変に納得させられた。と同時に、異様さも感じた。ところが、友達と一緒に食事に出かけたりして二、三回その通りを通ると、慣れとは恐ろしいもので、それほど異様さを感じなくなっていた。

友達と信号待ちをしている時、いきなり私のお尻を触った男がいた。後ろに私より一回りぐらい大きく、スポーツ選手のような体格の、例のごとく髭を生やした男がいた。私が振り返り「what」(何だ)と言うと、彼は「お前のお尻は私の好み尻だ」と言い、「一緒に飲みに行かないか」と誘うしまつ始末。思わぬアクシデントに、私はどうしていいか分からず、友達は人ごとのように傍観しているだけだった。彼の気を損ねるようなことを言ったら、ナイフでぐさりではたまったものではない。

「日本人留学生、おかま通りでおかまと口論、ナイフで刺され死亡」、なんて記事が頭をよぎった。どうしたものかと考えたあげくひらめいたアイデアが、英語が分からない振りして切り抜けようというものだった。

英語は理解出来ない。話しも出来ない。アメリカに来てまだ二週間。アメリカのことは何も分からないんだ、などと五分ぐらい話して、これだけ話せば充分だろうと思った時に気づいた。「ああ、大ぼけ、やってしまった」と。というのも、すべて英語でしゃべっていたからだ。彼は、二週間でこれだけしゃべれればたいしたものだと言い、さらに五分ほど話を続けてしまった。友達が呼んでいるからと、その場を逃れた。今思うと奇妙な体験である。 (つづく・感想文をお寄せ下さい)