個人を優先
ところがアメリカ人は、個人を団体に優先させ、集団への帰属は原則的には個人の自由意志によって決定されるべきだと信じている。団体の構成員であるより、個人でありたいと思っている。私はそれを裏付ける決定的な事件に巡り会ったことがある。

ニューヨークのセントラルパークで連続レイプ事件が発生した。それも白昼堂々ということで全米を揺るがした。二週間後に、十四歳と十五歳の五人組の犯人が逮捕された。私もこれだけでは驚かなかったが、犯人の一人の父親が堂々とインタビューに答えているのにびっくりさせられ、その上、その父親が次のような発言をしたことに、強いショックを受けた。

父親いわく「あれは確かに私の息子だが、あれは息子がやったことで私には一切関係ない。息子は息子、私は私。 息子は家を出て三年になるが一切連絡もないし、私は探そうとも思わなかったよ。だって彼の人生だもの」という内容だった。私は驚き、そばにいた友達に、アメリカ人はこういう考え方をするのか、尋ねると、「似たり寄ったりだな」と軽く答えただけだった。これこそ個人主義ではないだろうか。
 
日本語の個人とか個人主義という言葉は、利己主義の持つマイナスニュアンスを伴うことが多い。これをアメリカにあてはめると誤解をまねくことになる。個人主義にはある種の自己愛的な傾向が伴うことは事実である。しかしこの自己愛は、単なる利己主義というよりは個性の尊重ということなのである。個人はいかなる社会にあっても程度の差こそあれ、自己中心的な存在なのである。

英語で個人は「individual」(インディヴィジュアル)というが、日本語の「個人」という言葉が、この「individual」という英語の持つニュアンスを正確に伝えていないという厄介な問題がある。英語では、会社に属していないタクシーを「individual taxi」と呼んだりはしない。ところが日本人は「個人タクシー」と呼ぶ。日本語の個人は集団から切り離された人を示唆する。

これに対し、英語の「individual」は文字通り、分割できない「個」を意味し、「individual」が多様性を素材とする結合の完成を示唆している。日本語の個人は大きなまとまりの崩壊を意味するのである。日本語が離脱を示唆するのに対して、英語の方は個人の内面での結合を示唆していると考える。

第十章 unfair
アメリカ人が、日本について積極的に評価していることは確かにあるが、反面、日本人は「不公正である」と思っている人が六六パーセントもおり、「ずるい」と思っている人が六九パーセントに達している。ところで「不公正」という言葉を英語に訳すと「unfair」になり、「unfair」という言葉には、アメリカでは「ずるい」という意味を含んでいるように思える。日本人のことを、「不公正」と思っているアメリカ人は、自分たちが公正と思っているに他ならない。私がこの言葉、「unfair」に敏感なのには、一つ理由があるからだった。

事前の練習はずるい
アメリカで三年目の生活に入ったころだったと思う。サッカーの大会も終り、オフ・シーズンになった。その時、ゴルフ大会をやろうという話が持ち上がった。二週間後にやる、という日程が決まった。そこで私は、ゴルフ大会までの二週間、毎朝ジョギングをし、打ちっぱなしの練習場に週に三回ぐらい通った。

大会当日を迎えた。二十人が集まり、四人ずつ五グループに分けるくじ引きが行われた。その時何気なく私は、「大会をやる事が決まった日から今日までの二週間、毎朝ジョギングをし、打ちっぱなしに行っていた」と話すと、それは「unfair」(不公正、不公平、またはずるい)だと攻撃された。われわれ日本人なら冗談でもこのような台詞ははかないであろう。それが彼らは真顔で言っていたのである。それからである。私がこの言葉に興味を持ち始めたのは。

核心に迫ってみよう。これは、いろいろな要素が絡み合ってできた感情の一つであり、文化の違い、常識の違いなどからくるものだろう。まず初めに、私がゴルフ大会のために練習をしたからといって日本人のほとんどが「ずるい」とはとらないだろう。しかし、彼らにとっては「ずるい」になってしまう。その時、練習していたのは私だけだった。(つづく・感想文をお寄せ下さい)