母国語
同じようなものでもう一つ感じる言葉がある。母国語である。これもおかしいだろう。日本では誰も不思議に思う言葉ではないであろう。なぜなら、母の言葉が国の言葉という意味で母国語というのだろうから、日本語はそれに当てはまっている。しかし、このバスク出身者のルームメイトもそうだが、他の国では全て母の言葉が国の言葉になっているわけではない。

中国をはじめロシア、ユーゴ、アフリカ諸国などには言葉が何百もあり、一説で世界に言葉は三千五百五十から四千はあると言われている。しかしそれだけの国は世界に存在しない。国連加盟国でも一九九○年当時、百六十あまりだったと思う。つまり、世界的視野でみると、母国語というより母語と言った方が正しいのではないだろうか。英語ではmother tongueと言い、日本語では母国語と訳している。英語の方が意味をよっぽど正確に伝えていると思った。tongueとは舌、言葉、言語、国語あるいは民族語などと出ている。

つまりtongueは、言葉という意味合いが強い。tongueは言葉という意味だから、mother(母)をくっつけてmother tongueを母国語とするのは、言葉を訳す上で気持や状況が入っていない。言葉の表面部分だけを取って、訳を入れるというのはあまりにも短絡的である。これでも分かるように日本人は、あまり国際性のない民族であるということが伺える。

国際貢献
ルームメイトの話が発展してきたが、今、日本の国際貢献についてテレビ番組でいろいろと取り上げられている。私は、今の日本人はお金を出すことしか出来ないのではないかと思う。真の国際貢献とは、相手をよく理解すること。しかし、日本人というのは民族意識が全くなく、言語に関しても鈍感で、英語という一言語をマスターするのにも四苦八苦しており、宗教にもうとく、井の中の蛙状態なのである。

しかし、これから日本という国は、もっと世界から責任をか課せられるであろう。お金以外のところで。そうなった時にわれわれ日本人はどうするのか。一人一人が考えなくてはいけない問題である。前にも書いたが、学校教育がその一端を担っているはずなのに、そういう教育はほとんど行っていないのが現状である。学校教育の責任は重大であり、今まで述べた民族意識、宗教問題などをただ単に歴史の一部のように教えていてはいけない。

これから教室で、隣の席にイラン人やアメリカ人、ブラジル人などが座っている、という時代になるだろう。それもそう遠い話ではないはずである。もしそうなった時、国籍は日本だが、顔は外国人ということもあり得るはずだ。考え方が全く違うかも知れない。宗教観も正反対かも知れない。日本人の帰国子女でさえ学校の中でぎくしゃくしている現状で、日本の教育は、こういうギャップをどのように乗り越えていくのか、見ものである。

忍者は本物か
次にアメリカの教育現場の話をしよう。私は大学四年の時、夏休みを利用して近くの高校でちょうこう聴講させてもらった。十分ほど遅れてしまい入りづらくなり、教室の前でうじうじしていると、遅れて来た女の子が「何しているの」と声をかけてくれた。理由を話すと、私の手を取り、ドアを開けた。先生には話が通っていたので「welcome」と声をかけて貰った。自己紹介をすると、先生が「日本について質問がある人は」と生徒にと問う。十五人ぐらいの生徒が手を上げた。その幾つかの質問を紹介しよう。

一つ目は「空手をやるか」だった。高校生がなんとつまらない質問をするものだ、と思ったが、「小学校の五、六年の二年間道場へ通った」と答えると、その生徒はからて空手をやっているらしく「今度うちの道場に来てくれ」と言って座った。二つ目は「日本人は枕のそばに刀を置いて寝るのか」というのだった。私は呆れたというふうに「お前はテレビの見過ぎだ」と答えてやった。

さらに「まだ日本人はちょんまげをしているのか」「忍者は本物か」「日本人は数学だけしか勉強しないのか」など、まるで小学生のような質問が次々と飛び出した。私の困った姿を見かねた先生が「彼はアメリカの教育レベルがどのぐらいか知るために、わざわざ遥かかなたの東洋の国から来ているんだから、あまり馬鹿な質問をしないように」と生徒達をたしなめた。それにしてもこの先生の「東洋の国」という表現にもまいってしまった。それだけアメリカ人は、日本という国が遠いと考えているんだ、とその時は思った。 (つづく・感想文をお寄せ下さい)