面倒くさいので紹介して貰うことにした。五分ほどしてその連れという女性がやって来た。ところがその女性は、私の美に対する許容はんい範囲を遥かに越えていた。そこで私は「自分のパートナーは自分で探すべきだと言われたから」と、勝手に話をでっちあげ、彼女をこと断った。そばで話を聞いていた友達二人はくすくす笑っていた。

五分後にチークダンスがあるからそれまでに探せよ、と言われ、思いなや悩んでいると、捨てる神あれば拾う神ありで、二つ先のテーブルに一人の女性が何か飲みながら、座っているのが目についた。しかもとびきりの美人。私などとても太刀打ちできないと思った。しかし、周りを見ても一人でいるのは彼女だけ。

どうしようか考えていると、時間がどんどん過ぎ、いらいらがつの募るばかりだった。数人の男が入って来た。彼女を取られては困る、今を逃してはチヤンスがない、そう考えた私は、きよみず清水の舞台から飛び降りる覚悟で、その女性を誘いに行こうとした。それでも、もしかしたらポパイに出てくるブルートのような男が、すでに彼女をエスコートしているのではないか、そいつに殴られるのではないか、と想像すると決心がゆ揺らいだ。最後はかみだの神頼みで五十セントを出し、これが表なら行く、裏なら行かないと決め、五十セントを放り上げ、落ちてきたのをつかんで手の甲に乗せた。神様は「行け」という答えで、表が出た。

チークダンスに誘う
しかし女々しい私は、神様の答えを一回では信じられず、もう一度やって見た。すると次も同じ表で「行け」だった。またまた女々しい私はもう一度と思い、五十セントを放り上げ、手のこう甲に乗せた。これには絶対に従う、と自分に言い聞かせ、見ると、またまた表。これは疑う余地なしと判断し、思い切って行くことにした。心臓の音が、みんなに聞こえるんじゃないかと思うぐらいに鳴っていた。その音を聞きながら一歩一歩彼女のもとへ歩み寄った。

彼女のそばに立ち「もし失礼でなく、お一人なら次のチークダンスを誘っても構わないでしょうか」と切り出した。そのセリフが映画の一シーンのように、自然に言えたのである。答えはOKだった。その返事を聞いた時、顔はクールに装っていたが、内面はサッカー選手がゴールして喜ぶ十倍は喜んでいた。十分のチークダンスを一緒に踊り、その後、三十分ほど会話を楽しんだ。時間はあっという間に過ぎ、友達が呼びに来て、帰ることになった。帰り際に友達二人に「彼女の電話番号を聞いたか」と口々に言われた。「聞いてない」と答えると「あまい」と言われた。他の二人はしっかり電話番号を聞き出していた。

英語だと誘えた
その時以来だろうか、あるいは英語が流暢に話せるようになったためかはっきりしないが、日本で日本語でずばりと言えないことが、アメリカでは英語でなら言えるようになった。それは、英語なら簡潔に話すことができるが、日本語だとなぜかだらだら話してしまうからだろう。英語の構造は結論を先に述べ、理由を後に述べる。日本語は理由をいろいろつけ加えて遠回しに言い、やっと結論にたどり着く。日本は、顔が見えないとよく言われるが、この日本語の会話構造からもきているのではないだろうか。このことについてはもっと勉強したいと思っている。

日本語で日本女性に声をかけたのは、ヨーロッパ旅行中、スペインのホテルでだけ。それ以降、今だにない。その一声かけたことがとんでもない出来事に巻き込まれてしまった。そのことは、後ほど詳しく書くつもりでいる。

とにかく最近、英語の自分と日本語の自分の二人が存在しているように錯覚し、うまく融合しきれない自分に気づくことがある。ただ、もう一人の自分を作るという意味で語学を勉強するのもいいかもよ。

ところで、一日平均八時間ぐらい、例の「成功への道」を計画通り勉強し続けたので、成績はみるみる上がり、勉強が楽しくなってきた。自分の考えをレポートにぶつけ、私のレポートが時々クラスで先生に取り上げられるようになった。二、三紹介したい。

ユダを肯定するレポート
みんなはキリストの弟子のユダという人物をご存知だろうか。彼は裏切り者としてキリスト教の中では悪魔的存在である。しかし私は、彼の行為をこうてい肯定するレポートを六枚ほど書いた。内容はこうである。 (つづく・感想文をお寄せ下さい)