確かに彼は、お金と引き換えにキリストを敵に売り渡した人物ではある。しかし、自分の犯した大きな過ちに気づき、受け取ったお金を捨て、首を吊って死んだのである。しかし他の弟子達は、キリストが敵に捕まる寸前に逃げ出した。私に言わせれば、彼らはユダと同罪なのである。だが、キリスト教の中ではそうではない、と。

このレポートはAを貰ったが、内容についていろいろ質問攻めにあった。クラスメートは口をそろえ、私の考えは世俗的で
キリスト教的考えではないと言うわけだ。彼らの言うことはごもっともである。私はクリスチャンではなかったのだから。

女性の香水に非難
またこういうこともあった。バイブルの中に、ある女性がキリストの死を予期して、高価な香水を長い髪の毛に浸し、キリストの足を奇麗にするという場面がある。それを見た弟子がその女性に向かって、「なんてもったいないことをするんだ。もしそれを売れば貧しい人がどれだけ助かるか分からない」と、非難する。それを聞いたキリストが弟子を「何を言う。この女性は私の死の準備をしてくれているのだ。責めるではない」と、叱る。この内容も、キリスト教ではこの女性はとてもいいことをした人物として崇められ、非難した弟子は失言だと責められている。

私のレポートの内容は、この弟子の考えに同調したものであった。もし私がキリストの弟子だったら、女性を責めた弟子と同じ考えを持ったと思う、というようなことだった。また授業中に質問責めとなり、お前の考えは世俗的だ、と非難を浴びた。
この時一つ分かったことは、彼らはそれまでキリスト教徒の仲間だけと交流しており、中学、高校はキリスト教の学校、大学もキリスト教というように、非キリスト教徒とのつき合いがあまりないのである。だから私みたいのがちょっと違った考えを書けば、みんなが驚く。

それも多少は仕方がないのだろう。だってクラスメイトは、私がキリスト教徒だと思っていたんだからね。信者というのは、自分の宗教の欠点を認めず肯定することだけ。他の宗教を認めようとせず、敵対心を持つ。キリスト教のカソリックとプロテスタントがいい例だろう。もとは同じところから出ているのにいがみ合っているし、ユダヤ教も、キリスト教と同じようなところから出ているはずなのに、今では全く違った宗教のようであり、お互いに敵対心をもっている。それがエスカレートすると宗教戦争となる。

十字軍の殺戮
また、私は大学四年生の時、自信を持って一つのレポートを書きあげた。結論はこうである。キリストは人類の罪のために死んだというが、この二千年近い歴史の中で、どれだけの人がキリストの名のもとで殺されたか、計り知れない、というものであった。過去のキリスト教が関係した戦争をできる限り調べ上げ、死者を計算した結果をまとめ、書いた。これはかなりの反感を呼んだが、「事実だから仕方ないではないか」とクラスメイトに切り返した。

そして、十字軍の遠征について、十字軍の行為は、歴史上まれに見る残虐ぶりである、とも書いた。このような内容のレポートは、キリスト教の信者なら絶対に書かないことだろうが、私はずばずば書いた。このレポートも、斬新な考えということでAを貰った。このころから学問の面白味が分かってきて、勉強する気力が沸いてきた。卒業目的のための勉強ではなく、知的興味に基づいて、もっといろいろ知りたいという、純粋な気持ちで勉強に取り組めるようになってきた。この向学心の芽生えが、大学院進学という道を開いたのである。その後の成績は絵に書いたように、ほとんどAを貰った。卒業式まで後一ヵ月となった。

湖に放り込まれる
ここでまた一つの話をみんなに披露しなければならない。その事件が終わるまで、私は自分がその事件に巻き込まれたことに全く気づかなかった。どういう事件かを説明しよう。

寮の各階で、卒業生の中から犠牲者を決め、ワシントン湖に放り込むという伝統があった。だから卒業式一ヵ月前ぐらいになると、卒業生はびくびくし始める。中には絶対おれ俺は逃げて見せる、と豪語する者もいるが、それまでの寮の歴史でに逃げおおせた者はいないと言うことであった。中には授業終了直後に十人ぐらいに囲まれ、そのまま車で五分ぐらいのワシントン湖まで連れて行かれ、放り込まれる例もあったそうだ。私が対象に入っているとはつゆ知らず、私の寮の階の最初のえじきは誰だろうと思いつつ日が過ぎていった。 (つづく・感想文をお寄せ下さい)