テストが終わり、夜十時ぐらいにベッドに入った。そしてついにその日、私は自分の階の第一号のえじきになってしまった。
 その夜突然、十人ほどの大男に寝床を襲われた。私は気が動転した。彼らは私の手足を紐で縛り、口をテープでふさぎ、かつぎあげて運んで行った。そうなっても私は、何をされるのかはっきり分かっていなかった。

その時、私が考えたのは、不適切な表現ではあるが、一言でいい表せるので使わせて貰うと、「おかまを掘られる」ということだった。私はお尻の穴に全身の力を込め、ここは守るぞと思った。私は、それまでのアメリカでの生活をかいそう回想し、今まで勉強も好調だったのに、まさかこういう経験をすることになるとは、と考えていた。ただ、私はいつも、悪いことがあってもいい方、いい方に解釈するタイプなので、「男を経験するのも仕方がないかな」と、次第におかまを掘られるのを甘んじて受けよう、という気になり始めた。ところがワシントン湖に放り込まれて初めて、襲われた意味が分かり、自分の早とちりの考えに一週間ぐらいにやついていた。

とても寒い夜、寮の私の階の第一号として、私はワシントン湖に放り込まれた。これだけで終わればよかったのだが、その後私は、数年ぶりに風邪を引き、一週間学校を休む羽目になってしまった。テストが終わった直後だったので、それほど痛手はなかったが、もしテスト前だったらと考えるとぞっとした。ともかく、アメリカ人というのは、こんなことをするとても単純で、ある意味で純粋さを持った、子供っぽいところがある人種だと思った。今でもそう思っている。

最後のテストも終わり、いよいよ卒業式。日本の大学の卒業式には出なかったが、アメリカの大学の卒業式は忘れられない。先生達の話を聞いているうちに、私は四年間のことをいろいろ思い出し、目頭が熱くなった。

学長に二十五セント
私が卒業した大学の伝統なのか、他の大学でもやっているのかは分からないが、毎年、卒業生が卒業証書を貰い学長と握手する時、何かをてわた手渡す習慣になっているらしい。前年度は小さいピンポン玉、私の卒業式の時は二十五セントであった。日本人は「何それ」と思うだろうが、暖かい笑いが場内に沸く。学長はそれを卒業生から貰うものの、そのしょり処理に困る姿が楽しいということだろう。二百三十八人の卒業生(短大卒業生も含む)が、一枚一枚二十五セントを手渡す。なぜか近くの先生方は手助けしない。

学長は、初めは手に持っているが、持ち切れなくなると台の上に置く。そこもいっぱいになると、自分の袖にしまう。卒業証書の授与が終わると、学長の言葉になるが、台の上の二十五セントが落ちたり、袖のお金が腕を振り上げた時にちゃりんと音がしたりで、場内に爆笑の渦が沸く。なかなか楽しい卒業式だった。

これは小さい大学だから出来るのだろう。後に大学院生として私が通ったワシントン大学で卒業式を一度見たが、大学院生なども含めると卒業生が七千人以上はいるので、学長に何かを渡すなどということはとても出来ない、と思った。ただ、おおぜい大勢の卒業生が、かぶっている帽子を一斉に投げ上げる姿は爽快なものだった。

オーナースチューデント
そして式も終わりに近づいて「honor student」(名誉ある生徒)を発表することになった。こういうことがあることを知らなかったので、いったい誰が選ばれるんだろう、と興味津々だった。一人目が発表され、あいつは勉強ばかりやっていたからなあ、と思いつつ二人目、三人目の発表聞いた。三人目と四人目は私の最良の友達で、心から拍手した。五人目は、少し間があり発表された。

「Yoshihisa Tochika」。このアナウンスにとまど戸惑いを隠せないまま、四人が待っている壇上へと向かった。そして一人一人がスピーチをというので、五人目に、言葉少なに「学校と、いろいろ面倒を見て下さった先生、それと友達に感謝します」と話し、「神の祝福がみなさんにありますように。ありがとう」と結ぶと、みんなが立ち上がり、われわれ五人に大きな拍手をしてくれた。とてもうれ嬉しく楽しくいい卒業式になった。

式終了直前に、みんなが一斉に、かぶっている帽子を思いっ切り放り上げた。この時の気持ちは何とも言えなかった。苦しんだ分、喜びが倍増するとはこのことである。式直後、みんなから握手を求められ、寮の同じ階の友達がみんなで胴上げをしてくれ、日本語で「万歳」(アメリカ人は万歳という言葉を映画などから知っている)と祝ってくれた。 (つづく・感想文をお寄せ下さい)