アメリカに渡り大学に入学したが、在籍中、私は何度となく学校を止めようとした。英語学校へ通っている友達は気楽にやっているし、いつも遊びに誘われた。しかしその度に断っていたので、つき合い悪い奴と思われ、嫌な思いもしたが、大学ではとてもいい経験を積んだと思い、感謝している。このように、ノースウエスト大学での生活が終わった。約三ヵ月後のワシントン大学大学院進学への新たな闘志でいっぱいだった。ただこの後、大きく挫折することなど、この時は知るよしもなかった。

日本の卒業式は暗い
ところで、なぜ日本の卒業式は暗いのだろう。日本は別れの歌などを歌わせ、生徒を泣かせよう、泣かせようとしているように思う。日本ほど卒業式に涙を伴うところはないと思う。確かにアメリカ人だって泣いている人はいる。しかし、卒業生の九割以上は、笑いながら先生や友人と話をしている。

アメリカではとにかく勉強から解き放されたという思いが、卒業式の時に爆発する。私もそうだった。私の場合は大学院に行くことが決まっていたが、四年間を振り返り、一区切りついたという気持ちになった。また、「よくがんばったな」と、自分自身を誉めていた。本来、卒業式とはそういう性質を持った日ではないだろうか。卒業式を自分にとっていい日にするかしないかはすべて自分次第である。

第十二章 大学院へ
九月から大学院の生活が始まった。ノースウエスト大学入学時とは大きく違い、不安はなく、やるぞと言う気持ちに満ちていた。大学院にはそれほど長く在籍していなかったので、たくさんの思い出はないが、それでも心に残っている講義のことなどをみんなに紹介したいと思う。

ノートを取るのを禁止
ある教授は最初の授業の時、「ノートやテキストを机の上に一切出さないで下さい。そしてノートを取ることを禁止します」と告げた。その上「レポートは二十枚程度を一つ提出して貰い、定期テストは三回行います」とつけ加えたのである。さすが大学院、レポートの枚数は大学の時の二倍はある。以前の私なら大変だなと思っただろうが、その時の私は、大学卒業時に【名誉ある生徒】に選ばれたという自信があり、気分は絶好調で、レポート枚数二倍という話に、驚きもしなかった。

しかし厳しい現実はすぐにやってきた。教授は五十五分間しゃべりっぱなし。指示通りノートは誰も取っていない。しかし二週間目ぐらいから数人の生徒が、手の平サイズのメモ用紙を持ち込み、ノートを取り始めた。だが生徒がそれほど多くいるクラスではなかったので、教授にすぐにばれ、メモ用紙は取り上げられた。私は、何が何だか分からないうちに三週間が過ぎてしまった。一週間後に一回目のテストがある。ノートも何もないし、クラスメイトも当然ノートを持っているはずがない。テストの結果は散々なもので、Cマイナスであった。この大学院では卒業時に必要な成績はBプラス以上で、Cマイナスは卒業にかかわってくる大きな問題である。

内緒でメモをとる
一ヵ月が過ぎた。私も手の平サイズのメモ用紙にノートを取り出した。私は見つからなかったが、ノートを取っていた数人の生徒が不運にも見つかってしまった。その生徒達は見つかったのが二回目ということもあり、今度やったら単位はやらないとまで言われた。私もさすがにその言葉に驚いて、手の平サイズのメモを取ることは止めた。

しかし、今度は自分の太ももに書き始めた。しかし、何かいつもびくびくしているようで、授業に身が入らなかった。そこで私は腹をくくり、一切ノートを取るのを止めてしまった。学期の半分が過ぎた。その時、私の精神状態は、麻薬を欲しがる麻薬患者のように、手がノートを求めていた。あるクラスメイトは小型のマイクロホンを携帯し、教授が話していることを小声で繰り返し、録音していた。私は「こいつ、やるな」と心の底で敬意を払った。

授業のコツをつかむ
二ヵ月が過ぎた。そのクラスでは終了のベルが鳴ると同時に、みんな一斉にノートを出し、凄いスピードで教授の話を書き始める。勿論私も実行した。次のクラスがあるので、歩きながらノートを取ったことさえある。二ヵ月目が苦しさのピークだったと思う。その時期を乗り越えると、いつの間にかその授業に親しみのようなものを覚え始めた。つまり、授業を受けていて楽しいのである。授業の流れが感覚的に捉えられるのである。このような経験は初めてだった。そうなると、ほかのクラスが凄く幼稚に思えてきた。 (つづく・感想文をお送りください。)