日本に行った教授のクラスはあまり勉強にはならなかったが、変ないじ意地が出て負けられないと言う気持ちだけが、心の支えだった。後で聞いたことだが、その教授はかなり有名らしかった。しかし世の中、くだらない人間が有名で、素晴らしい人物がけんきょ謙虚にじみち地道にやっていることも多い。

コピー一枚物語
大学院ざいせき在籍の時の話である。私が廊下を歩いていると、私が取っているクラスの教授が私を呼び止め、時間があれば手伝って貰いたい仕事があるのだが、と頼まれた。私は、気楽に引き受けた。仕事内容は書類のコピーだった。枚数が多かっただけで大変な仕事ではなかった。教授は一時間もあれば全部コピーできるだろうと言った。私も、枚数から判断しそのぐらいで終わる、と考えた。

その時、コピーの仕事で、アメリカ社会の厳しさをかいま見るとは夢にも思わなかった。関係者以外立ち入り禁止のところでコピーをしたので、学生は勿論やって来なかったし、私が行った時は誰もいなかった。ラッキーと思いながらコピーに取りかかった。十分ほど経った時、凄い美人が私の横に立った。私が「コピーですか」と聞くと「そう」と答えたので、お先にどうぞと譲った。彼女はほんの三分ほどで終わった。その間私は、「貴女は学生ですか」と聞いた。

「いいえ、私は事務員です」との答えだった。「貴方は」と聞かれたので、大学院の一年に在籍し英文学を専攻していていること、教授に頼まれコピーの手伝いをしている、と話した。「日本人ですか」と聞かれ「はい、そうです」と答えてから私の名前を言った。

彼女も名前を言い、アメリカのお決まりのごとく、「Nice to meet you」(お会いできて光栄です)と言い合い、握手をした。「機会があったら食事でもどうですか」と誘うと「いいですよ」という返事だった。これはついていると思った。十分ほど話し込んでしまったが、コピーは機械が勝手にやっていた。その後、勉強が忙しく会うことはなかった。会っていれば、と考えると残念でたまらない。違った人生が開けたかも知れない。

凄い美人の彼女が立ち去って五分後に、今度はちょっとした美人がやって来て、コピー機の横に立った。私が「コピーですか」と聞くと、「はい」との返事。何枚ですかと尋ねると「一枚」と答えた。それなら「どうぞお先に」と勧めた。彼女はにこやかに「ありがとう」と言い、コピーを済ませ去って行った。コピー一枚だけでいい思いをしたと思った。

五分後、今度は男がやって来た。彼は無造作に機械の横に立った。私は五分ほど何も言わなかった。じっと立っているので、私が「何枚ですか」と聞くと、彼はぶっきらぼうに「十枚」と答えた。その言い方にむっとしたが、前の二人でいい気分になっていたので、お先にどうぞ、と先を譲った。彼はコピーを済ませると、ぼそっと「ありがとう」と言い残してすたすた行ってしまった。


それからおよそ十分後に来たのがデブ女だった。女性に対し、手の平を返すように態度を変える自分に、時にはいやになることもある。それはともかく、十分ほど何にも言わずにいた。私の方は後少なくとも四十分はかかる。そう考えると私は思わず「何枚ですか」と聞いていた。「五枚」という返事だったので、先を譲った。彼女はありがとうと言い、まるでにんぷ妊婦のように重い体を揺らしながら立ち去った。私は彼女の後ろ姿を見て、痩せた方がいいぞ、と心の中で叫んだ.

コピーの手伝いが後十五分ぐらいで終わろうとしていた時、また凄い美人がやって来た。今度は絶対に譲らないぞ、と決心したにもかかわらず、彼女の美しい姿を見るとすぐ、「コピーですか」と尋ね、彼女が「そうです」と言うので、お先にどうぞ、と譲ろうとした。彼女は「十五分ぐらいかかりますから結構です」と断った。すると私は「私の方は一時間以上かかりますから、お先にどうぞ」と、そんなにかからないのにうそ嘘をつき再度勧めたのである。彼女は「それなら先にやらせていただきます」と、コピーを始めた。私が「学生ですか」と尋ねると、大学院の四年生(博士課程の二年生にあたる)で、薬学専攻だという。

ちなみに私が通っていたワシントン大学は、医療関係の学部がずば抜けて優秀で、とくに薬学部は全米でもトップ5に入ると言われていた。アメリカの理系や医療関係の学部は、企業と密接に結びついていて、研究資金は企業が出すので、凄い設備が整っている。彼女は、一つの部屋を研究室としてあてがわれていて、勉強で遅くなると、そこに寝泊りができるようになっている、と話していた。
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