東大の研究室がNHKで紹介されているのを見たが、そこは人が数人入るといっぱいになるほど狭く、設備がいいとはおせじ世辞にも言えない。それが日本一と言われている大学の研究室だった。アメリカの大学の研究室と比べると、月とすっぽんとはこのことだ。だから日本の優秀な研究者がMIT(マサチュセッツ工科大学)やハーバードに行ってしまうのだろう。

話を戻そう。
一時間ほどで終わると思っていた仕事が、二時間かかってしまった。研究室にコピーを届けに行くと、教授に「遅かったね」と言われた。「コピーをする人が五人来ましたので、先を譲りました」と、遅かった理由を説明した。すると、教授は「それだとアメリカ社会では生きて行けないよ。仮に君が百枚で相手が一枚でも、まず譲り合わないね」と話す。

確かに、私がコピーを先に譲った五人のうち一人として私に、「枚数が少ないので先にやらせて貰えないか」などとは口にしなかった。全て私が譲ったのである。アメリカでは「お先にどうぞ」などとはまず言わないそうだ。教授の話を聞いて、私は考えさせられてしまった。日本人は、多分私と同じで、自分が時間がかかるようだと、かからない人に先にやらせてしまう。勿論、コピーだけの話ではない。みんなはこのことについてどう思いますか。

RENT A WOMB
次に「RENT A WOMB」(子宮を貸します)というは張り紙が、大学院の掲示板に貼ってあるのを見た話をしよう。
その張り紙を見て驚いた。詳しくは電話でとのことだったが、妊娠してからの月々の生活費は一千ドル、出産時五千ドルとあった。加えて「私は白人で二十二歳」と書いてあった。この掲示を見た時、本当にびっくりした。アメリカらしいといえばそれまでだが、子供が欲しいのにできない人に、自分の子宮を貸す、と自分でPRしているわけである。日本では考えられないことだと思うが、みなさんはどう思いますか。

日本人エリートに会う
大学院の生活の中で、ある日本人に出会ったことを話したい。かつてエリート社員だったという人の話である。その人とは、クラスは違ったが教わっていた教授が同じだった。私は教授に会うため予約を取りつけていた。一時十分からの予約だった。その教授の部屋の前まで行くと、一時二十五分からは「佐藤」という人が予約していて、名前が書かれた紙がドアに張り出してあった。

私の他にも日本人がこの教授のクラスを取っているんだな、と思いながら、予約の時間を待っていると、その日本人がやって来た。私は彼が紙に名前が書いてある佐藤という人だと直感した。彼は私を日本人だと思わず、英語で「この教授はとても厳しいですね」と話しかけてきた。それから彼はドアの予約表に目をやり、私が日本人であることに気づいた。教授との面会時間まで十分ほどあったので、世間話をした。彼は結婚しており、奥さんも一緒にアメリカで生活していた。その時は少ししか話せなかったが、食事に招待され、私は彼から大きなことを学ばせて貰った。あの日の予約時間の偶然に感謝したい、と今でも思っている。食事に招待された時、いろいろと話がはずんだ。私が「日本での生活を捨て、よくここに来ることが出来ましたね」と話を向けると、彼は「日本の競争社会がつくづくいやになったからだ」と話した。

この時、この人は三十五歳だった。東京出身で中学、高校は開成。大学は東京大学で東京大学大学院修士課程を終了し、野村証券の研究所に勤めた、ちょう超エリートだった。彼の話だと、中学入試で開成に受かった時、これでエリートの波に乗れたと思ったと言う。しかし周りを見ると同じようなのが多くいる。再び競争をして東京大学に入学。ようやくエリートコースに乗れたと思った。しかし周りには同じようなのがごろごろいる。大学院に入学した時もそれまでと同じように思い、野村証券に入社した時は、エリートの中のエリートになった、と思ったそうだ。しかしやはり周りには同じような人間が多くいた。まだ競争は続くと思った。

そして五年間働いた後、社内の外地研修制度のテストに数十倍の倍率を乗り越え合格し、ハーバード大学大学院法学部で一年間勉強することが出来た。帰国後彼は、これで完全にみんなより頭一つ飛び出たと思った。確かに飛び抜けたが、そこにはまた同じような社員が何人もいるのを知り、そこで初めて彼はきりのない競争の空しさに気づいたという。

それから二年間、空しさを感じながら働いたが、ついに仕事をや辞める決断をする。周りは猛反対したが、「好きなようにしたら」という奥さんの理解があって、退職の決心がついたという。(私もこのような奥さんを早く見つけたい)。(つづく・感想文をお寄せ下さい)