彼の中学、高校、大学、大学院時代は、周りを意識しながらの競争だった。そんな中での価値観は一つしかなく「エリート」であった。大学の学問など一切関係なかった。例えば、大蔵省の高級官僚の八割以上が東大出身で、大蔵エリートは、大学というと東大しか頭に浮かばないらしい。他の大学は、大学と認めていない裏返しなのであろう。

野村証券でも東大出身者が幅を利かせていた。「その中の一人が自分だったと思うと、今でも嫌気がさしてくる」と彼は苦々しい表情で話していた。彼はこうも言っていた。サラリーマンも当然そうだが、エリートになると、一日も競争を休めない。死ぬまで競争ということになってしまう。エリートの中で競争を怠ると、エリート脱落の烙印が押され、周りから軽蔑の眼で見られるらしい。その時の彼の話は私にとって、小説でも読んでいるかのようだったが、彼のあまりの真剣なまなざしに、私がまだ社会に出ていなかったこともあり、社会に出るのが怖くなった。

彼は、三十五年間生きてきて、ワシントン大学大学院のこの一年間の生活が、初めて自分の意志で生きていると感じている、とも話していた。彼の人生の三十四年間は、常に何かに操られ、損得勘定で生活していたように思うが、この一年間は自分のために生きているということがひしひしと感じられ幸せだ、としみじみとした口調で話していた。

私はその話を聞いて、凄い人に出会ったものだと思い、あの時の偶然の出会いに感謝した。私はまだ大学院一年生で彼は五年生、つまり博士課程二年目で、後一年で終了というところだった。「これからどうするのですか」と話を向けると、「とりあえずここを卒業して各大学に自分の博士論文を送り、どこかの大学で数年間教壇に立ちたい」と希望していた。彼ぐらいの経歴があれば、日本ではすぐにどこかの大学にしゅうしょくさき就職先が見つかるだろう。

この出会いは私のその後の生き方、考え方に大きな影響を及ぼしている。エリートと呼ばれている人間でも、大きな悩みを持っているということを知った。またエリートといわれる人間は、勉強の面では評価されるが、人生において忘れものをしているように思うのである。例えば恋などはいい例だろう。彼も今まで一回も恋愛をしたことがなかったと言う。奥さんとは見合いだった。

その奥さんだが、お茶の水女子大在籍の時、ミスコンテストで五人にまで選ばれたほどの美人だった。しかも話し方に優雅さと品があり、いやみがなく、ひかえめで、私のような下品な会話につき合ってくれ、笑いがとても美しく、すてき素敵な女性であった。そんな奥さんの姿を見ていて、私は理性がぶっ飛び、「妹さんはいないのですか」と思わず質問をしてしまった。答えは「いますよ」であった。「私(三十二歳)より三つ下だから今二十九歳で結婚はしていない」とのことだ。私はこの機にと思い「どういう方ですか」とまで聞いてしまった。佐藤さんの奥さんとは全く正反対の性格と顔だという。
旦那さんも「やめた方がいい」と苦笑いをした。

私は、この奥さんに出会い、彼女が私の理想の女性になってしまったことが、私をして今だに結婚できないでいる理由かもしれない。それはともかく、彼らとの出会いは、私にとって本当にいい出来事だった。人生の勉強になった。私が帰国してから三回ほど手紙をやり取りした。最後の手紙は、私が高校の教師をやることになったことを書いてやったら、彼はその時、大学の専任講師としてがんばっていると返事をよこした。

家庭教師
大学院で二週の春休みに入った。どこかに旅行をしたいと思ったが、家庭教師をしていたので、どこにも行けず
にアルバイトに精を出していた。日本商社マンの子供達相手の家庭教師だった。時給が二十ドル。日本レストランでは、時給四ドルで、怒鳴られながら働いていたことを思えば、とても楽である。

ヨーロッパ派遣の話
春休みも半分が過ぎようとしていた時、卒業校から呼ばれ、学校へ行った。私が行った時はすでに三人が待っていた。その三人と私は、卒業式に「名誉ある生徒」に選ばれた仲間だった。「名誉ある生徒」に選ばれたのはもう一人いて、私の一番の親友であったドイツ人であるが、彼はすでに国へ帰っていた。学部長の話は「優秀な卒業生をわが校と提携しているヨーロッパの大学へ講師として派遣する制度があり、みんなもやってみないか」と誘うのである。 (つづく・感想文をお寄せ下さい)