ドイツでは「宗教」という科目があり、その中で誰もが直面する死を考え、そのことから人生を考えることを学ぶそうだが、イギリスでも同様な教育をしていると話していた。そのためか、高校生でも、大学の哲学科を卒業したのではないかと思われるほどの知識を持っていた。
世の天才・哲人達が、人生に迷い、苦しみ、矛盾を感じ、それをどうように克服したのか、その中には死を選んだ人間もいるなど、彼らは天才・哲人の伝記から学び、自分はいかに人生を生きるか、を学んでいるのであった。

次に日本についてである。
前に、開成中学・高校、東大、東大大学院、野村証券研究所、ハーバード大学院へと進んだ人のことを紹介した。彼は日本の社会が、休む間のない競争の連続であることに嫌気がさした、と話していた。また、横浜にあるスポーツも強く、しかも毎年七十人は東大に入学するという私立高校を卒業した私の知人は、その高校について一言、「あの高校に入学したら人格が歪むよ」と吐き捨てるように言った。

これが日本のトップ校の姿なのだろう。日本のトップ高校のにんむ任務は、より多くの生徒をへんさち偏差値の高い大学、いわゆる一流校に入学させるかである。ヨーロッパのように高校時代に、これから生きるであろう六十年、七十年先のことを考える教育を、日本では針の先ほども行ってはいない。私はすでに三十歳を越えたが、人生を三十年以上生きてきて、みんなに今のうちに身につけて貰いたいと思うことは、苦悩、逆境、壁などにぶち当たった時、自分がその逆境や壁にどれだけ立ち向かっていけるか、自分の周りの状況に応じて、自分の持つ力を十二分に発揮するにはどうしたらいいかを、見出してほしいということである。

サッカーは人生と同じ
私は高校でサッカー部のこもん顧問を二年間やったが、サッカーは野球などとは違い常に動いている。人生と全く同じである。相手も動いている。相手の状況をてきかく的確に判断しながら、動かなければならない。このことは自分の生きていく道を学ぶのと同じだと思う。サッカーで一番まずいプレーヤーは、自分の出来ることと出来ないことが分かっていない人である。タイプ的には明らかにデフェンスタイプなのにフォワードをやりたがる。こういうタイプが実に少なくない。

つまり自分の持っている長所をどのようにチームの勝利に貢献できるか、ということなどちっとも考えていないプレーヤーである。自分の生かし方を学んでいない。逆にそれほど目立たないが、自分のプレーはこれだ、これが、自分がチームの勝利に貢献できるプレーだと分かっている人がいる。われわれ顧問はそんな人間をしっかり評価しているし、チームには有り難い存在である。チームの十一人にはそれぞれ違った役割があるのだから。

Jリーグのサッカー人気は一時ほどではなくなったが、それでも熱狂的なファンがたくさんいる。その中で多分誰もが知っている三浦和良だが、仮にキーパーを除いた十人が、彼と同じ役割を果たそうとしたら、全日本は間違いなくアジアカップには優勝できなかったとみている。一人一人、個性の違ったプレヤーが違ったポジションでその個性を大いに発揮することこそが、チームの勝利に貢献するのである。

スーパースターといわれる三浦和良が十人いても勝てないのである。そのことに一人一人気づけば、私が顧問をしていた高校のサッカー部は、もっと強くなったと思ったのだが…。そのような意識革命をしないと、何千回ボールを蹴っても同じことである。個々の役割を、スポーツを通して学んで貰いたいと、私は強く願っている。

よくマラソンが人生に例えられるが、サッカーも同じだと思う。スポーツとは恰好の人間形成の場なのである。みんなには自分の人生の中で、自分自身の生かし方を身につけ、有意義な人生を送ってほしいと願っている。今、自分の人生について考える時代がきている、そう私は思う。私達の親はそんなことを考える暇もなかったと思う。しかし今はそのことを考えるべきである。イギリスの話というより、私の人生訓のようになってしまった。話をイギリスに戻そう。私がイギリスにいた四ヵ月間は、部屋や図書館にこもりっきりだったように書いたが、 それでも何度かバス旅行をした。その話をここで紹介する。(つづく・感想文をお寄せ下さい)