第十四章その他あれこれ
3K
次に私が働いた仕事のことなどを記そう。
日本一というビル、ランドマークタワーの建設現場で働いたり、ブロック屋でバイトをしたり、清掃車に乗ってゴミを回収したりと、今の日本人が進んでやろうと思わない仕事を、私は抵抗なくできた。だから、自分は何をやっても食って行ける自信がある。健康ならばの話であるが。

ランドマークターワでバイトをしている時のことである。バイトという立場にいながら、私は五人ほどの部下を持つしょくちょう職長を任されていた。毎日十一時と三時に行われる一時間ほどの職長会議にも出席していた。ある時、私の仲間に聞いたらしく、現場監督が「遠近さんはアメリカで五年も生活していて、向こうの大学を卒業して大学院にまでいったんだってね」と私に声をかけてきた。清水建設(建設業界ではトップクラスの会社)から派遣されていたその現場監督はさらに、「何でこんなところで働いているのか」と聞いた。

アメリカの大学が休みの時、帰国して植木屋のバイトをしていた時もよく言われた。ある家庭の庭に木を植えに行って、一仕事を終え、その家の人がお茶やお菓子を出してくれた時、世間話の中で私の話が出た。ほとんどの人に、なんで遠近さんはこんな仕事をしているのか、理解できないと言われた。また、市役所に清掃車のゴミ回収の仕事をしようと面接に行った時も、市役所の人は「働き手は欲しいが、本当に貴方が働いてくれるんですか」と何度となく念を押された。

一等賞病
清水建設の人の話に戻すと、彼は早稲田大学を卒業しているとのことだった。大学生の時、彼もアメリカのMIT(マサチュセッツ工科大学)に留学したいと思っていたという。MITは一流大学の一つである。建設現場で働いている貴方のような人とこんな話ができるとは思わなかったよと言っていた。私は、何て悲しい人だと思いながら、おそらく日本人の大半がこれに近い考えを持っているのではないか、と思った。つまり一等賞病という病気を持っているということである。いろいろ議論の出るところではあるが、この病気の源は学校教育にあると私は思っている。

偏差値教育の弊害。トップ校へ行けば優越感にひたれ、底辺校へ行けば劣等感を持つ。私の母校の高校は偏差値でみると底辺校にあたる。ある時、テスト休みで家にいると保険屋のおじさんがやってきた。書類の説明を十分ほど受け、これをお母さんに渡して下さいと言ってから、「お兄さんは今幾つ」と聞くので「十六歳」と答えると、どこの高校へ行っているか聞かれ、「私立三浦高校です」と答えると、そんな高校かと言わんばかりに、もっと勉強しなくては立派な人間になれないとまで言われた。それに加え、自慢話が始まり、娘は県立横須賀高校(横須賀ではトップ校)で、弟は県立追浜(おっぱまと読む、これも横須賀ではトップ校)だと、得意そうだった。その時私は十六歳ということもあり、ショックなことを言われた、と記憶している。

大人というのはこういう価値観を持っているんだということを知った。社会に出れば人間性ではなく、外面的な飾り、つまり学歴や家柄で評価されてしまうものかと困惑した時期があった。自分が希望する高校へ入学できなかった、というコンプレックスと底辺校という劣等感を、一時的にせよ持ったこともあった。しかし、一生つき合える友達を見つけたし、部活のサッカーも充実していたし、さらに三人ほどいい先生に巡り会えたことを考えれば、総合点では九十点ぐらいの高校生活が送れたと思っている。高校のランクづけは、どこの国でもやっていることではあるが、日本という国はうまく言えないが、一等賞というのに異常にこだわり過ぎてはいないだろうか。そして子供達をだめにし、性格を歪めているのではないだろうか。また日本ほど職種にランクづけをしている国は他にはないと思う。

アメリカでも勿論、同じようなことはある。しかし例えば、アメリカで3Kの仕事をしている人は日本ほどひくつ卑屈になっていない。仕事は、生活のためにお金を稼ぐ手段であると考える。それ以上に、どうやって生きて行くかが問題である、と考えている人が多いように思う。とにかく堂々とやっているのであるが、日本では卑屈になって働いている人が少なくない。私の経験からそう思う。

学校教育の問題
勉強が全てで、勉強ができなければ、人格まで否定されてしまうようなところが、日本の学校にはある。また、学校教育について言いたいことは、暗黙の内にこれはいいもの、いい考えというような、「いい」という価値観を身につけさせてしまっている。
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