将来の夢は、バスの運転手であった。今バスの運転手になりたいという小学生がどれだけいるだろうか。また三年生の時は船に乗りたいと思った。おやじがまぐろ船で機関長をやっていたから、私も、と思ったのである。しかし、小学校五年生の時、新しい担任に遠近君のお父さんの職業は何かと聞かれ、漁師です、と言うのをためらった記憶がある。それから中学、高校とおやじがふなの船乗りまたは漁師という言葉に、異常に敏感になっていたころがあったように思う。誰にも漁師が3Kの仕事だと言われたことはなかったが、私は、そういうふうに思った時代があった。

今の小学校や中学、高校で船に乗りたい、農業をやりたいと希望する人はどのぐらいいるのだろうか。例えばある優秀な生徒が、農業をしたいとか、工業高校へ行きたいなどと言っても、その生徒の意見はそんちょう尊重されず、とりあえずトップ校へ入るように勧められるのがほとんどだろう。それが大きな問題で、工業高校や商業高校、水産高校は普通高校へ行けない生徒が行く、とされてしまうのだ。この価値観が社会人になってからも大きく影響することになるのではないか。どこの高校を出たか、と聞かれるのがとてもいやだ」と話す、高校時代の友人がいる。こんなコンプレックスを持たせたのは学校教育ではないか。このような感情を持っている生徒を「そんなことはない」と説得するのはとても大変である。なぜ大変か。答えは極めて簡単である。教員というのは、学校教育の中では優等生であったからである。

優等生は優秀な生徒の気持ちは理解できても、劣等生の気持ちは理解できない。恋愛文学について、恋を経験したことのない人が、その文学作品を、ああだ、こうだと語ることは無理だと思うのだが、どうだろうか。もう一つつけ加えるとしたら、教員というのは一通り何でもオールマイティーにこなせ、がんばれた人達の集まりなのである。しかし、この世の中、がんばり通せる人や踏ん張りの利く人、持続力のある人、センスのある人、一回聞いて「はい」と分かる人ばかりではないのである。

いい加減な奴や、何回教えても理解できない生徒などいろいろいるのである。優秀で何でも一通りこなせ、がんばれたり踏ん張れる人達が、器用でない生徒の生活態度や考えを指導するというのは、私に言わせれば恋愛を知らずに、恋愛とは何かといったことを教えている教員に他ならない。

教育改革についていろいろ言われ、カリキュラムなどが話し合われているが、私に言わせれば順序がおかしい。まず教員がもっと自己訓練をして勉強すべきだと思っている。四年間教育の現場にいて、生徒達は大人を馬鹿にしていないが、教員を馬鹿にしている、とつくづく感じた。教育問題については、いつか機会があったらまた、書きたいと思っている。ところで生徒達から、なぜ役にも立たない英語や数学、理科などを勉強しなければならないか、という愚痴にも似た発言が多くある。

数年前にNHKの教育番組で、中学の先生と生徒が討論をしていた。生徒からなぜ社会人になってほとんど使用することのない英語や数学、理科を勉強しなければならないのか、という質問が出た。それに対し先生からは明解な答えが出なかったと思う。私自身、大学の二年間は一般教養を勉強しなければならず、「専門の英語を」と思ったことは先に述べたが、ここで、私なりに中学生の発言への答えを書いてみたい。

堅い表現で恐縮だが、学校とは今まで人類が蓄積してきた知的財産を継承する場所だと思う。人間も動物の一つだと考えれば、動物の中でこのような作業が出来るのは人間だけである。それなら人間に生まれたからには、知的作業をするのが義務ではないだろうか。もっと書きたいことはあるが、この点についてはこの程度に留めておく。

タクシードライバー
勉強とは人生を豊かにしてくれるものだと私は信じている。私がアメリカ留学を終え、ヨーロッパを三ヵ月近くかけて旅行した時、スイスでタクシーに乗った。最初は英語で話をしていたが、会話の内容がドイツのことになり、当時私は、ドイツ語も勉強していたし、ドイツに数週間滞在した後、スイスに入ったこともあり、ドイツ語での会話になった。もちろん運転手はドイツ語が母語だから、私はついていくのが精一杯だったが、三十分ほど、ヨーロッパ文化の話をした。 (つづく・感想文をお寄せ下さい)