そのタクシードライバーはドイツ語、英語、フランス語はほとんど問題なく操れ、スペイン語もある程度は分かると言った。このような人がタクシー運転手だとは驚きだった。彼は最後に「ヨーロッパは国同士が隣接しているが文化は全く違う。だから面白い」とも言った。私は、この人にヨーロッパ文化論を学べたら楽しいのでは、と考えたほどだ。私にとって英語が話せるというのは人生にある豊かさ与えてくれた。

ところで、次のことはとくに生徒には理解しにくいことかも知れないが、国力の問題である。今、日本の学校では学力低下が大きな問題になっている。私も教育に関係した仕事をしているだけに、このことを痛感しているとともに、どうにかしなくてはいけないと考えている。学力低下は東大などでも大きな問題になっているが、ある生徒は「おれ一人馬鹿がいても国力が下がるわけがないと」言うかも知れない。 私はこの考えは大きな間違だと思う。例を一つ挙げてみたい。

ある名門高校サッカー部があって、この部には百人もの部員がいる。レギュラーは十一人。サブは五人。その他四人の部員が大会登録できる。後の八十人の部員は大会には出場できない。おそらく百人の中から選ばれた二十人はとても優秀な選手達だと思う。しかし、この二十人の選手だけが優秀でも、全国大会などに出場出来ないことがある。その一つの原因は、大会登録できた二十人の選手達とその他八十人の選手達の意志の差が大きすぎるとだめ駄目な場合が多い。つまりその他の八十人の部員が「どうせ俺達はレギュラーになれないんだ」と、いい加減な練習をしていたら、このサッカー部は名門ではなくなる。

もう一つ例をあげると、巨人軍がとてもいい例になると思う。あれだけの選手を集めて勝てないことがある。お金があるからすぐにいい選手を引っ張ってくる。このようなことを何度も繰り返していると、もう少しがんばればレギユラーになれる、と一生懸命努力している選手はくじけてしまう。くじけないでがんばるのがプロだ、と言えばそれまでだが、プロも私達と同じ人間なのである。高校野球で甲子園の客席で応援している多くの野球部員を見ると、彼らが部を支えているんだ、ということがつくづく分かる。

学力低下が国家の危機
一九八二年に私がアメリカに留学した時、アメリカ政府が『国家の危機』という本を出版した。内容は学力低下が国家の危機を招くといものだった。日本はアメリカの二十年後を追いかけているといわれており、日本も学力の低下が国家の危機に直面することが考えられる。今、日本では三十人学級が必要だと言われている。アメリカではその議論は二十年前に起こっており、アメリカ、カナダでは十八人学級に移行している。

もっと実用的な知識を教えたほうが生徒のためだという議論が多く聞かれたり、入試科目が三科目だけだから、それだけを勉強すればいいという生徒も多くいると思う。現在横須賀の進学校といわれている高校に勤めている知人がいる。彼は会うと愚痴をこぼす。理科の先生で、二年生になると半分以上の生徒が理科の教科書の上に英語の教科書を重ね、英語の勉強をしているという。彼ら彼女らには理科が入試科目ではないからである。このような現象が進学校で平然と起こっている。やはり何かがおかしいと思う。私は社会生活を営む上での「素養」を身につける場が学校だと考えている。

現実の学校は入試対策など、表面的な知識しか学べないが、今は役立つ勉強だと思わなくても、立派な社会人になる関門だと思って、与えられている課目をがんばって勉強して欲しいと願う。明治の文明開化は、明治の人々によって実現されたのではない。江戸時代に寺小屋などで一生懸命勉強した人達によって開花されたものである。その当時人々は明治の文明開化のことなどを考えて勉強していたわけではない。その時、目の前にあった勉強をがんばったからであり、受験のためだけの勉強は、そろそろやめにしたい、と私は切実に思っている。

フリースクール
先に、アメリカやカナダでは十八人学級に移行していると書いたが、アメリカに留学中、ユニークな教育現場に出会った。それはフリースクールという名前の民家を利用した学校だった。
フリースクールという言葉を最初に耳にしたのは、私がアメリカ(ワシントン州シアトル)に留学していた約二十年も前のことだ。
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